◆交響曲第一番―symphonyNo1―


 突然照明が落ちたことよりも、それが即座に予備電源に切り替わらないことの方が怪訝だった。
それは列席の彼らも同じだったようで暗転後暫くしてから動揺が拡がる。
この会議室には窓が無い。蛍光灯の燐光では、どうにかうっすらと議場の様子が見える程度だ。
程なくして非常用電源に切り替えられたらしい照明が点り、同時に内線から前置きの無い切羽詰った声が届く。

「敵襲!敵襲です!!」

人ならざるものと戦うために訓練された機関だ。例え警備といえど取り乱すことなどそうは有り得ない。それが分かっていても報告はインテグラをして耳を疑うものだった。
曰く、屍食鬼の集団による本部襲撃。

「時間を稼げ!円卓メンバーの避難が最優先だ!!」

「無理です!敵がもうすぐそこまで―――――」

内線で届く警備員の悲鳴は、化け物を狩る事を生業とした局員たちがもはや食われる側に回った事を意味していた。電話機のスピーカーが警備室の破壊音を垂れ流す中、振動を伴った低い音が部屋を揺らす。爆発音だと判断できたのは多分、咄嗟に立ち上がったウォルシュとペンウッドが最も早かっただろう。
爆発物による破壊活動は秘匿を旨とする機関ではあまり推奨されない行為ゆえ、インテグラにとっては馴染みが薄い。それが爆発の音だと認識した瞬間、襲撃する敵が真っ先に破壊するべきものが何であるかを悟る。

「屋上のヘリか・・・」

インテグラの呟きに数人が驚愕の目を向ける。世間的には伯爵という肩書きは一応あれど、個人の邸宅でしかないヘルシング邸に、テロリストなどの武装組織からの襲撃を意図した備えは無い。だが相手は屍食鬼だ。ならば正しくこの屋敷は彼らの標的であろうし、円卓会議のメンバーもまた然りだ。

『アー、アー、アローアロー、円卓会議のミナサンにビッチのヘルシングちゃん聞いてますかー。』

繋がったままの内線から流れる聞き覚えの無い若い男の声と、引き千切られる肉の音と砕かれる骨の音。そして、明らかに咀嚼していると分かる音。

『僕様チャンたちはバレンタイン兄弟〜。弟のヤンでーす、よろしくねー。こちらは只今ランチの真っ最中ぅ。隊員のミナサンを美味しく戴いておりマース。』

屍食鬼というやつは恐ろしく貪欲だ。人と見れば例外なく襲い掛かり食らいつく。その目的は食欲を満たす為なのか仲間を増やしたいが為なのか。それは生きた人間を駆逐するまで止まらない。

『今からブッ殺しに行くぜ。小便は済ませたか?神様にお祈りは?部屋の隅でガタガタ震えて命乞いする心の準備はOK?』

哄笑しながら自殺を奨める男の声が遠ざかる。本人の弁を借りるなら我々を「ブッ殺し」にこちらに向かって来るのだろう。

「どういう事だインテグラ!!」

真っ先に声を上げたのは誰だったか。

「敵が来ます。今の奴の口ぶりだと我々が狙いのようですね。」

「何を暢気なっ・・・敵が、敵が来るのだぞ!!」

そんな事は反復されずとも分かっている。
警備室と繋いだままだった内線を一旦切って執事を探す。確かドラクロアから注文品が届いていたから、あの2人に配達してくると言っていた筈だ。牢獄には内線など繋がっていないが他の部屋なら別だ。インテグラはセラスの部屋を選んで呼びかける。

「ウォルター、居るか?」

『ハッ、お嬢様。』

即座の反応に、だがほっとするのはまだ早い。この状況下において、地下とこの会議室の間には絶望的とすら言える距離がある。

『状況は把握しております。どうやらこちらにも敵が近付いているようですが、此方はアーカード様にお任せして、我々は其方の防衛に参ります。』

「どうやってここまで?」

『10年前、貴女様はどうやってこちらに?』

そうだ、邸内を敵が我が物顔でうろついている以上それしかない。むかし叔父の部下たちの監視の目を逃れて、自分が地下へと辿り着いた方法だ。
執事が通信を切ろうとする気配に、時間が無いとは思いつつ声を掛ける。

「ウォルター。」

内線が繋がったまま、相手が耳を澄ます気配を感じた。

「奴ら、私の部下たちを喰っていた。絶対に許せない。」

『分かっております、お嬢様。』

ぷつりと小さな音が内線が切れたことを知らせる。今は彼らを待つしか手立ては無い。

「インテグラ、ど、どうするのだっ・・・この責任は・・・」

ペンウッドが立ち上がったままインテグラに食って掛かる。珍しいことではあるが、小心者ほど窮地に立たされると吠えるものだ。額に脂汗を浮かせ、卓上で握り締めた拳が震えている。怒りにというよりは恐怖だと分かる表情。こんな人が何故円卓メンバーになれたのか未だに不思議である。とは言えインテグラとしては重宝させてもらってきた。もちろん助ける努力をするのにやぶさかでない。

「ペンウッド卿、今はそんな事を言っている時ではない。その時は、自分の身は自分で守らねばならん。そうだな?インテグラ。」

「・・・はい。」

流石と言うべきか、円卓会議の長たるアイランズ卿は落ち着いたものだ。しかしこの銃規制の厳しい英国で銃を携帯している特異な面子であっても、法儀式済の実包などを仕込んでいるのはインテグラだけだ。
インテグラの手持ちのオートマティックの中にある15発。今はそれのみが実質的効果の得られる武力である。
末席にあるインテグラは立ち上がり、椅子を反転させて座りなおす。その視線の先には唯一の出入り口である樫材の扉。いざという時の為の出迎えの準備だ。
15発で15体を屠る自信はある。だが機関に壊滅的打撃を与えていると思われる相手が、たった15体であろう筈がない。よくある悪趣味な鎧や剣や斧といった飾り物を備え付けておけば良かったと思うが後の祭りだ。屍食鬼の動きを止めるには両足を砕くのが手っ取り早いだろうが、一度に大量に来られては、誰かが喰い付かれる前にそれが出来るかと言うと些か難しい。思考できる吸血鬼ならまだ牽制も出来ようが、相手が屍食鬼ではそれすらも出来ない。

「どうせ・・・どうせ皆死ぬんだ・・・」

ペンウッド卿の嘆きもむべなるかな。しかし理解は出来るが同意できるかと言えば否だ。諦めが人を殺す。
唐突に全身を寒気に襲われ、卓の下でこっそりと腕をさする。襲撃される事への恐怖?否ちがう。影という自分の領域をあの男に侵される時の感覚にも似た、魂の根幹に関わる忌避感。契約の影響なのだろう、アーカードがリミッターを解除したのだという事が理解できた。それ程の敵の襲撃に今この屋敷はあっているという事か。さっきの男は自分を「兄弟」と名乗っていた。吸血鬼は屍食鬼を兄弟とは言わない。ならばアーカードがリミッターを解除するレベルの吸血鬼が少なくとも複数以上は居るという事になる。こちらに向かって来る奴も、そうなのかもしれない。
最悪の状況の中、床に金属の格子が落ちた甲高い音はこの部屋に居る面々にとっては福音とすら言えた。

「婦警!」

「遅くなりましたー。」

と言いつつもセラスはそこから出るのに手間取っている。あちこち出過ぎなのだ。
ようやく通風孔から抜け出した彼女はバランスを崩して床にしこたま尻餅をつく。対して続いた執事は、そんな場所から出てくるのでさえも実に優雅にひらり降り立って見せた。

「大丈夫かねセラス嬢。」

口ぶりが執事ではなく死神だと気付けた者がインテグラ以外に居ただろうか。
安堵する自分を叱咤して、冷静を装い言葉を絞りだす。一人で不安だったなど、指揮官として絶対に吐露してはいけない事だ。

「状況は?」

「守備隊はほぼ壊滅のようです。屍食鬼に武装させて組織化するなど、やるものですな。」

地獄絵図。と死神ですら評した。

「率直に聞く。我々はお終いか?」

「否。この程度ピンチの内にも入りません。お嬢様のご命令どおり、この屋敷から一匹たりとも帰しませぬよ。
あの小僧に我々の高額な授業料を払わせてみせましょう。」

死神が微笑む。小さい頃から傍に居た彼の、執事とは違うもう一つの顔だ。

「セラス嬢、通風孔の忘れ物を取って来たまえ。90秒で出撃準備だ。」

「ヤ、ヤーッ!!」

セラスは慌ててペンウッドの座っていた椅子を壁に寄せると・・・何故か椅子の主は床に転がっている・・・通風孔への忘れ物とやらを引っ張り出す。円卓の椅子を踏み台にする娘もその彼女が手にした物も、どちらも大物だ。
大振りのケースから取り出され、組み上げられていく得物を目にした円卓の面々が複雑な表情を浮かべた。援軍は有り難いが、何てモノを出してくるのだと思った事だろう。30mm砲など普通なら戦車や艦船についてるような代物だ。しかしこれならば屍食鬼でもひとたまりもあるまい。

「90秒。出撃します。セラス嬢は入口でスタンバイして支持後、後方援護を。」

手にした懐中時計を見て死神は言い、扉を僅かに開いてするりと廊下に出た。その跡にセラスが組み上げた30mm砲をセッティングする。手際は悪くない。
屋敷にも相当な被害が出るだろうが、命あっての物種だ。
万が一にも突破されることは無いだろうと思いつつもベレッタの弾倉を確認する。屍食鬼はともかく、あのふざけた糞フリークスには一発ぶち込んでやらなければ気が済まない。
振動、怒号、銃声、静寂。そしてセラスによる砲撃。
屋敷の向こう側は半壊したなと思いつつ、戦果を確信する。
そろそろ出て行かねばぶち込む前に吸血鬼が消炭にされかねないとインテグラが立ち上がろうとした時、セラスが堰を切ったように30mm砲を放置して走り出した。何事かとは思いながらも腰を浮かせかけた椅子に再び体重を乗せる。ここで自分が動揺してはアイランズやウォルシュ以外の円卓メンバーの心臓に悪かろう。
まだ『前線』は廊下の先のようだ、言い争う声は届いてくるが内容が定かではない。
と、こちらへと駆けて来る足音がする。ウォルターとセラスが敵を駆逐していたのなら走ってくる必要は無い。来るのが敵にせよ味方にせよ危険を知らせる音なのは確かだ。
ベレッタのセーフティを解除すると、同じような音がいくつも背後で起こった。誰もが腹を括ったらしい。
30mm砲が向こう側を覗く分だけ開かれていた扉が乱暴な音を立てて大きく開かれる。飛び込んできた若い男を瞬時に「こいつだ」と思ったが。辛うじて心臓を撃ち抜くことは自制した。たった12丁の集中射撃に吹き飛んだそいつを追って廊下に走り出る。
その時目にした光景は、一生忘れることはないだろう。

「そん・・・な・・・」

迫り来る屍食鬼の群れは見慣れた制服を着ていた。内勤や警備担当の着る群青色、実働部隊の着る黄土色。そのどちらにも共通の紋が入った腕章。

「そんな、部下たちが・・・屍食鬼に・・・」

かつて局員だった者たちが緩慢な動きで押し寄せてくる。それも悪夢なら、それを悪鬼のごとく屠るセラスの姿もまた悪夢だった。

「セラス!!」

理性ではそうすべきではないのは分かっている。分かってはいても感情が耐え難い。

「もういい!やめてくれ!」

セラスを静止したとて、彼らに救いがあるわけではない。それでも踏みにじられるのには耐えられなかった。
共に戦ってきたのだ。戦友であり、肉親の居ない自分にとっては家族のようなものだ。
怒りが沸々と込み上げる。お誂え向きに執事が襲撃者の動きを封じ込めたところだった。 廊下の隅にへたり込んだそいつが、歩み寄る自分を見上げて不快極まりない笑みを向ける。

「よう、ビッチ。」

両肘と両膝に弾丸をくれてやった。心臓になど撃ち込んでやらない。再生しかけたらまた同じ場所に撃ち込んでやる。

「誰がお前らの後で糸を引いてる。」

質問にそいつは哄笑する。酷く下品で酷く耳障りで我慢がならない。

「笑うな。答えろ。」

「分かってんだろ、連中が作戦に失敗した俺を生かしておくと思うのかい?」

言った瞬間そいつが白い炎に包まれる。何がそんなに可笑しいのか、もはや自身が炎と化したそいつが壊れた玩具の様に奇怪な笑い声を上げながら中指を立てて見せた。

「一個だけ教えてやるよ、せいぜい頑張んなビッチ。」

吸血鬼が滅びる時の常なる様で、水分を無くした砂の像のように崩れ落ちていく。

「ミレニアム。」

まるでチェシャ猫のように、笑いとその言葉だけを残してそいつは消えた。かつて局員だった者たちの成れの果てを残して。

「大丈夫ですか、お嬢様。」

気遣う執事の手が肩に乗せられてはっとする。そうだ、呆然としている場合ではない。

「私よりも、彼らを楽にさせてやってくれ・・・」

酷な仕事だと分かっていて命じた。そしてその罰はすぐに自分に返って来た。

「それは指揮官の仕事だインテグラ。」

アイランズの冷徹な声に思わず振り返る。自分はちゃんと彼の目を見れただろうか。恨みがましい顔はしていなかっただろうか。

「アイランズ卿、それはあまりにも・・・」

とりなそうとする執事にアイランズは否ときっぱり言い放つ。

「仕方が無かったは通用しない。全ての責任は指揮官にある。違うかね?インテグラ。」

反論の余地も無い。そうだ全て自分のせいだ。彼らが死んだのも死にぞこなってるのも。

「ウォルター、替えの弾倉を持ってきてくれ。弾が足りない。」

「お嬢様っ・・・」

「私の責任だ。」

まだ蠢いている者たちもほとんどがセラスによって破壊され動きを封じられていた。それに一人ずつ、心の中で声を掛けながら額に銃口をあてる。
―――――許してくれとは言わない。全て私の責任だ。
せめて組織的な敵が居るかもしれないと思ったときに何らかの対応をしておけば。今さらそんな事を考えてもどうにもならないと分かってはいるが。
きっと自分は高を括っていたのだ。あの男が居るからこの屋敷は安全だと。その結果がこの様だ。

「セラス。」

「はっ、はいっ!」

「円卓の方々の警護を頼む。ウォルターは帰りの足を手配してきてくれ。通信が途絶しているのなら外部から連絡するしかあるまい。」

言って踵を返すと当然のように執事の声が追って来た。

「お嬢様、どちらに?」

「部下が、まだ残っていないか見てくる。」

「残党が居るやも知れません。」

付き従おうとする執事を制し、首を横に振る。

「大丈夫だ、奴が上がってきている。」

首輪を振り解いたあの化け物の気配が、瘴気が近付いてくるのが分かるのだ。あれと円卓のメンバーを対面させる訳にはいかない。

「・・・承知、いたしました。」

不承不承といったていで執事が頷く。とは言えこの最上階だけは階下に下りる階段は一つ。連れ立って2階へと降りる途中の踊り場で、その男を視界に捕らえた。斜め後ろを付いて来ていた執事が一瞬だけ足を止め、歩みを止めたインテグラを追い越して目の前の男とすれ違う。
サングラスも帽子も無く、魔眼から放たれる赤光が遮るものなくひたとインテグラの顔を見据える。出会った時のような拘束衣と、左手にはカスールではなく初めて見る黒い銃。恐らくドラクロアから納品された物だろう。

「下に誰か居たか。」

「生者は居ない。蠢く死者は始末した。」

「演習棟や研究棟の方の様子は分かるか?」

続けざまの質問に男は数秒遠くを見るように視線を虚空に移してから、もう一度インテグラと視線を通わせる。

「何も動く気配は無い。」

全てを失ったのだと認識するに足る言葉。大切な部下たちの命が全て化け物によって刈り取られたという事実。

「そうか。」

今は自分の成すべき事を成さねば。その言葉だけがぐるぐると頭の中に木魂する。

「術式を・・・拘束術式を再施行しなければ。そのまま瘴気を垂れ流されていては困る。」

早々にこの男を移動させなければ、円卓のメンバーがここを通る際に残滓のみでも卒倒しかねない。

「兎に角引き返せ。地下だ。」

男を促し再び階段を下り始めたが、その先の光景は凄惨極まりなく流石のインテグラも息を呑んだ。
壁や床に残る破壊跡と大量の血痕。頭を破壊された遺体は局員の制服を着たものもあればメイドの格好をしたものも居た。相手が屍食鬼ではこの男も平らげなかったようだ。
倒しても消滅しない屍食鬼という変則的な存在のおかげで、せめて弔ってやることは出来る。しかし今はこの男の処置が先決だ。地下の最奥の牢獄に自ら先んじて入り、続いて入ってきた男を振り返って尋ねる。

「拘束術式を再施行するにはどうしたらいい。」

開放するには自分は必要ないといわれた。では施すには?業腹だが分からないことは素直に聞いたほうが早い。
男がゆっくりと甲を上に左手を差し出す。銃はいつのまにか仕舞ったようだ。

「ここに、お前の血を。」

言われて見れば、この惨状のなか不気味な程に真っ白な手袋には在る筈のものが欠けていた。そういう事かと納得して自分の手袋を外し、男に近寄りその牙を借りて指に傷を入れる。傷の入った指を圧迫して男の左手に血液を滴らせると、それは白い布の上で滲むことも無くペンタグラムとサークルを描き出した。自動書記になっているようだ。文字と記号まで全てが刻まれ終えた瞬間に男が黒い霧と化す。騙されたかと一瞬だけ思ったが、散じた霧はすぐに集合して見慣れた男の姿を形成しはじめた。
紅い巨躯の上で大きな帽子を被った白皙が皮肉な笑みを唇に刻む。まるでインテグラの不安を見透かすように。

「そっちは?」

平静を装いつつ右手を指差すと、男が甲を見せるようにこちらに向けて挙げた。

「必要ない、こちらは零号用だ。」

1号から3号までの限定解除は兎も角として、零号開放の事象が以前に聞いたとおりの事ならば、未だにそれが何を意味するのかはよく分からない。

「拘束術式を解くほど相手は・・・」

強かったのか、と聞こうとしてやめた。
部下たちが全滅したのは敵が強かったからじゃない。自分が準備を怠ったからだ。

「上の様子を見てくる。お前はここで待機だ。」

周囲の安全を確認して円卓メンバーらを送り出し、局員たちをどこかに安置してやらねば。遺体の移動にはセラスやこの男の手も借りねばなるまい。屋敷の修復の手配は執事がやってくれるだろう。
いつに無く足が重く感じるが、立ち止まっている暇など無い。階段を上がりエントランスに出たところで執事と鉢合わせた。一人ではなく見知った顔と一緒だ。

「グエンダ?」

「インテグラ!!」

子供の時のように名前を呼んだのは、彼女が動揺していることを表していた。

「門前で合流いたしました。」

執事の言葉に彼女の動揺の訳を察する。道すがら状況の説明はしたのだろう。だがインテグラの疑問はそれだけに留まらない。
何故、貴女は助かったのだ。と。
思えばおかしな話だ。襲撃者は円卓とアーカードが狙いなのだとはっきり言った。だがそもそも円卓はいつ招集されるかなど事前に決まっているわけではない。今回も決めたのはほんの二日前だ。奴らは以前から準備し、虎視眈々と円卓が招集されるのを待っていた?否、有り得ない。屍食鬼には耐用日数がある。吸血鬼と屍食鬼の大きな違いは知能のみではない。生ける屍か、動く屍かの違いがある。屍食鬼は、腐敗するのだ。だが1週間程度ならば事前に準備しておくことも可能だろう。
一週間前には決まってすらいなかった円卓会議を見越してだ。

「私は研究棟に行くよ。」

グエンダが研究棟へと続く裏口の方向へと足を向ける。

「私も行こう。ウォルター、車の手配は?」

「滞りなく。」

「そうか、卿らを頼む。」

言い置いて急ぎ足でグエンダを追う。掛け替えの無い部下の、証拠隠滅の可能性を疑っている自分に気付いて暗澹たる思いではあるが疑念は尽きない。円卓を招集せよと暗に促したのは彼女なのだ。
渡り廊下で追いついたインテグラにグエンダは早足のまま話し始める。

「坊や・・・シュバリエがね、図書館の資料室にここ半年のデータが無かったって言うからさ、そういえば保管を怠っていたと思ってデータを持っていってたんだ。まさかこんな事になってるなんて・・・」

成程、大英図書館のあの秘密書庫へのデータ保管名目ならば、彼女が外出していても不思議ではない。機関内であそこに出入り出来る者は、インテグラとグエンダしか居ないのだから。問題は何故それが今日だったのかと言う事だけだ。
研究棟の入口となるスチール製のドアを開けると同時に、グエンダの足がびくりと止まる。邸内の惨状を目の当たりにしたインテグラにしてみれば、ドアの先に続く研究棟の廊下は静謐なくらいだったが。
震える足でそこに踏み込むグエンダに続いてインテグラも足を踏み入れる。廊下には眠るように床に倒れこんだ人影が3名。グエンダを除いて研究班と科学班あわせて8名居た筈だが、あとの5名は開け放たれたままの複数のドアの中のどれかに居るのだろう。
廊下に倒れている職員には見たところ目立った外傷もない。グエンダがそれぞれの首元に手をあて、悲痛な面持ちで首を小さく横に振った。研究職員には入局時に致死毒の封入されたアンプルを支給されている。実働部隊と違って戦う術を持たない彼らには、最悪の場合は人としての尊厳を守る選択肢が与えられている。
つまりは自害だ。

「そう言えばシュバリエは?」

あの人でない青年はどうなったのかとインテグラが尋ねると、グエンダがはっとしたように研究室のドアへと向かう。グエンダの背中越しに開かれたままのドアから中を覗けば、荒らされたとひと目で分かる室内に青年の姿はあった。床にうつ伏せに倒れたその体を、駆け寄ったグエンダが抱きかかえるように起こす。他の遺体と違って、その体にはあちこちに噛み千切られたと容易に想像のつくような欠損が見られた。
グエンダが青年の首に手を当て、やはり首を横に振る。人狼ゆえに屍食鬼にはならなかったのだろう。屍食鬼の捕食による傷ではなく銃弾が致命傷になったと思われる。

「うちが今までに狩った化け物たちの死に様を見るわけだから、結構きつい仕事だったと思うんだよ。でもあんたの役に立ちたいって言ってた。」

何も無ければ人としての人生を全う出来たかもしれない。うっかりインテグラに引き寄せられたばかりに、思えば不運な青年だ。しかし化け物にとってインテグラが疫病神であるというのなら、それはそれで望むところではあるのだ。
一抹の申し訳なさを感じつつも青年の遺体を具に観察すると、不自然に硬く握り締められた右手が目に付いた。

「グエンダ、彼は手に何か持ってはいないか?」

言われたグエンダがシュバリエの拳をそっと開くと、そこには小さなデータカードがあった。敵の軍勢に破壊されることを怖れて持っていたと考えられないか。

「グエンダ、それを渡してくれ。」

とっさに手を差し出していた。もっと何か言いようがあったかもしれないが、そんな事に気を回している精神的な余裕すら無かった。グエンダが怪訝そうに、しかしふいに何かに気付いたようにデータカードをインテグラの掌にのせて小さく息を吐く。

「中身はあの発信機に関する調査報告だと思う。私も関わっているけど、坊やが身を挺して守った事に免じて信じてやってくれないかな。」

「すまない。」

そう言ったのは、その場では判断しかねたからだ。自分よりも長く機関に居てくれている人だが、しかし自らの手落ちで大切なものを失くした今、これから戦っていくためには全ての可能性を排除することは出来ない。

「ネタが上がるまではクビにならないって事でいいかい?」

もちろん疑わしいというだけで放逐できるような人材でもなく、また現時点では何よりも人手が必要だ。

「頼む。」

そうとだけしか言えなかった。この疑念を晴らす術を今のインテグラは持ち得ない。だから信頼は出来なくてもここで仕事をして貰うしかないのだ。
グエンダはもう一度、しかし今度は大きく溜め息を吐く。

「あのさ、今は私が何を言っても響かないかもしれないけど、あんま独りで抱え込むんじゃないよ?」

笑い返したつもりだったが、上手くいった自信が無い。
何も言えなくなって、そのまま無言でその場を後にする。抱え込むなとは無理な話だ。組織の頂点に立つと言う事は全責任を負うという事。その責任を負っているからこそ部下たちは従ってくれていたのだ。負うのを放棄したら自分の存在意義など無いに等しい。
その責任において全てを失った自分は、既に存在意義など無いのかもしれないが。
エントランスホールに戻ると三対の視線がインテグラを振り返った。執事と婦警と、それからアイランズだ。
執事に視線を向けると彼は軽く腰を折り、インテグラの無言での質問に応えた。

「他の皆様は既に帰途につかれました。」

「ご苦労。」

アイランズが最後になったのは偶然か必然か。

「インテグラ。」

そう名を呼んで、しかしポーカーフェイスの中にも苦渋を滲ませてアイランズが言葉を失す。ええ、分かっています。貴方がああいう言い方をしてくれなければ、他のメンバーから円卓を危険に晒した責任を追求する声が上がっていたかもしれない。円卓の末席に座っていると同時に、自分には円卓会議の守護者たる責任もある。下手をすれば英国を大混乱に陥らせていたかもしれないのだ。
そして全ては正論であったのだから。

「卿らが無事で何よりでした。」

「・・・何かあれば連絡を。協力は惜しまん。」

「有難うございます。」

自分でも空虚だと分かる儀礼的な返事をして頭を下げる。我ながら修行が足りない。

「お迎えが参りました。」

執事の声を合図に、苦い空気の中をアイランズが玄関ドアへと向かう。
執事が開けたドアの向こう側の世界は、じんわりと黄昏の色を宿し始めていた。



 とりわけ大きく破壊された3階の私室に戻ることは執事に反対された。3階がその様では執務室のある2階に居る事すらも人手の無い現段階では警備上困難と言わざるを得なく、結果的に修復がある程度終わるまでは地下に寝泊りすることになった。ベッドだけでも私室から運ぶ意向を執事が示したが、それこそ労力の無駄だと却下した。
局員や使用人たちの遺体は1階の会議室に安置した。明日には荼毘に付す。
空き部屋に簡易ベッドと机と椅子を運んでもらい、ノートパソコンを持ち込んだ。寝る場所があって仕事が出来れば充分だ。今夜はもう、雑魚ですらも出現してくれるのは勘弁して欲しいところだが。
そんな事を考えるようでは駄目だなと自重しつつ、パソコンを立ち上げシュバリエの持っていたデータカードを差し込む。フォルダを開いてみると、グエンダの言ったとおり頼んでおいた調査の報告書だった。
機械自体の出所は不確かだが、部品の出自から南米で生産されたものと思われる。
カトリックやプロテスタントの多いお国柄ではあるが、人狼はともかく吸血鬼の話はあまり聞かない土地柄だ。

「随分と仕事熱心なことだ。」

まさしく跳びあがるほど驚いた。不覚にも考え事に集中しすぎていた。振り向いてその姿を確認し、早めに手を打っておかなかった事を後悔する。チョークはシガーケースに入れておいたというのに。

「脅かすなアーカード。」

「それは失礼。」

微塵もそうは思っていない顔で男が唇の端を吊り上げる。嫌になるほど、この化け物はいつも通りだ。

「何の用だ。」

「用?私の用事を説明したほうが宜しいかね?主」

更に唇を吊り上げて男がさも面白そうに言う。何も面白いことなど無い。こちらとしては不快になるだけだ。

「言わなくていい。頼むから今夜は―――――」

そっとしておいてくれ。と、そう言う前にベッドに組み敷かれた。この畜生め。

「言った筈だ、お前以外の生も死も私には関係が無いと。」

「他の誰も関係なくても、私の気持ちくらい考えてくれてもいいだろう。」

「優しくしてほしければ少しは萎らしくしてみてはどうだ?」

「黙れ糞犬!放せっ!!」

抵抗しようと力を入れても、頭上に縫いとめられた両手首はびくともしない。押さえつけている男の片手ひとつでだ。ベルトを解かれ、トゥラザースの中に男の手が入り込んできてそこを弄くりまわした。いつもなら簡単に昂ぶらされる躰が、苦痛しか訴えてこない事にほっとする。業を煮やしたように無理やり捻じ込まれた男の指とそこが軋んで、思わず顔を顰めた。

「濡れんな。」

当たり前だ。あんな事があったばかりだと言うのにこの男を受け入れようとするのなら、自分は絶望のあまりこの躰を引き裂きたい衝動に駆られる事だろう。

「無理だアーカード、私はお前とは違う。」

この男には関係が無くても自分はそういう訳にはいかない。自分が至らなかったばかりに大切な部下たちを死なせたのだ。
さすがに興が削がれてくれるだろうという僅かばかりな期待は、トゥラザースと下着を剥ぎ取られ男がその剛直を取り出したことで打ち砕かれた。宛がわれ突き入れられたそれはまるで灼熱の楔で、慣れた筈のそこを貫かれた瞬間痛みに思わず息を呑む。
何故だ。という声にならない問いは唾棄すべき自信の甘さの裏返しで、この期に及んで自分がこの男に期待していた事に失望感を覚える。この男をあてにしていたばかりのあの有り様だと言うのに、また自分はこの男をあてにしていたのだ。苦境に立たされた自分を虐げまいと。
―――――糞!糞!糞!
心臓が鉛にでも置き換わったかのように重苦しい。胸の辺りから喉にせり上がって来るものを押し込めようと歯を食い縛ると、眉間に憶えのある疼痛が奔る。はっとして眼を見開けばゆらりと視界が歪んだ。
―――――畜生!
大切な友人を失った時に決めたのだ。二度と涙は流すまいと。
男が更に深く穿とうとインテグラの腰骨の辺りを両手で掴む。開放された手で顔面を覆って硬く眼を瞑っても、溢れ出るものを止める事が出来ない。頭の中はWhyとShitで埋め尽くさたが、もはや男に対してなのか自分に向けたものなのかも曖昧だ。
男が抜き挿しする度に貫かれた場所に痛みが奔る。
痛みを感じることすらも、死んだ彼らに申し訳なかった。反面、羨ましいとすら思う気持ちが頭を擡げる。
死ぬまで戦わなければならない自分にはそこにしか逃げ場は無いのだ。

「いい加減にしろ。」

何かを言われた。と気付いたのは顔を隠した両手をはぐられたからだ。

「いつまでも泣き喚いていないでさっさと眠れ。」

不機嫌そうに寄せられた柳眉の下の紅玉と目が合う。
好きで泣いている訳でも無いし、喚いてなどいない。何か言い返してやろうと思ったが口が動かない。
口だけではない、視線すら既に男の目から離すことが出来ない。
しまった。と思う暇も無く、意識が闇に閉ざされた。





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