◆組曲―saraband―


 午前2時半、変則的ではあるが慣れた今日の一日がようやく終わる。
まだスーツ姿のままのインテグラは執務室のデスクの引出しからシガーボックスを取り出した。一本を手に取って先をカットし、ガスライターで火を点け深く吸い込む。仰向き加減に虚空に煙を吐き出しながら乾いた瞳を潤すように瞼をおろし、じんわりと痛む目の違和感が無くなるのを待ってゆっくりとまた開いた。
二口目を吸い込んだところでノックの音が響く。葉巻の火を灰皿でもみ消して、誰とも問わず入れと低く命じた。

「失礼します。」

壮齢を過ぎかけた実働部隊の隊長は颯爽とした動きでドアから入ってくると、インテグラのデスクから3メートルほど離れた場所で立ち止まり踵を揃えた。

「悪いな、仕事終わりに呼び出して。さっそくだが、どんな按排だ?」

そう言えば、ついこの間も新入りの事をこんな風に聞いたばかりだ。

「いえ。はあ、何とも、まあ普通と申しますか・・・」

その時に比べると、部隊長の返答がどうにも歯切れが悪い。

「構わん、忌憚の無い意見を頼む。」

インテグラの急かすような言葉に「では」と咳払いして彼は続ける。

「・・・彼の、シュバリエの戦闘能力は訓練を受けていない常人並みです。」

遠慮するなと言ったはずのインテグラが眉を寄せたのは、部隊長の説明が気に入らなかったからではない。

「人狼だぞ?能力を隠している可能性は無いのか?」

訓練を受けていない常人と言うと、この組織では役立たずと同義語だ。

「その可能性も考えて暗殺チームに秘密裏に襲撃させてみたのですが・・・」

「うん?」

「危うく本当に抹殺するところでした。」

要するに命の危険に瀕しても役立たずっぷりを発揮したということだ。それにしても、解せない。

「襲撃しても、獣人化しなかったのか?」

「本人曰く、よく晴れた満月の夜しか変身できないとの事ですので、そちらの検証はヴィクトリアに頼んではおきました。」

そんな限定的な状況下のみで獣人化出来ると言った程度なのか。それでは機関にとって役立たずであることに変わりない。確かに人畜無害ではあるかもしれないがそれでは使えない。そうなると一度機関に引き込んだ以上、勝手な話だが始末することも考えなければならない。
そんな事を考えていると、溜め息混じりに部隊長が言葉を継いだ。

「戦闘能力以外なら常人離れしているのですが。」

「戦闘能力以外とは?」

「動体視力と記憶力、あとは計算能力とでも言いますか。演習後の残弾数などはぴたりと当てられますが、それが役に立つかと言われましたら何とも。」

部隊長がくれた新しい情報はとても有用とは言い難かった。それを認識してか彼の表情も苦い。人狼なら即戦力になると安直に考えた自分の判断ミスだ。

「要らぬ気苦労をさせてすまんな。」

「いえ、戦力の増強は常に課題ですので。」

職務の性質上、最前線に出る者の従事年数は限られてくるし、残念ながらどんなに万全の体制を敷いても殉職者がゼロになる事も無い。警察や軍から引き抜いてくるにも限度がある。『仕上がった』隊員を掠め取られるのにはどこだって良い顔はしない。

「分かった。明日の夜までには対処を考える。今日はもう休んでくれ。」

部隊長が一礼して部屋を辞すと、背後から低い含み笑いが聞こえた。
薄々気配に感づいてはいた。部隊長が居る内に出てきて茶々を入れなかったのは誉めてやりたいところだが、インテグラの口から思わず出たのは舌打ちだった。
それ見た事かと思っているのに違いないのだ。この男のしたり顔など見たくも無い。

「さあ今度こそオーダーを、我が主。」

見なくても皮肉な笑みが聞き取れる声にインテグラは男を振り向かないままに渋面を作る。
何故だろう、先程まで始末もやむなしと思っていたのに、この男に言われると素直にそうしたくない。
それで、と言うわけではないがふと思い出したのだ。

「要らぬ事だ従僕、人手が足りていないのは戦闘部隊だけではない。鑑識班も手が足らんと言っていたのでそちらに回す。幸い頭は良さそうだしな。」

椅子から立ち上がり、そこで初めて体を反転させる。
外は闇。窓ガラスは鏡のように室内を映し出していたが、目の前にある男の背中だけが欠けていた。
帽子とサングラスで眉と目が隠された白皙は口元から表情を推し量るしかなかったが、それには何の感慨も無いように見えた。

「随分とあの人狼に肩入れしているようだ。」

「肩入れなどしていない。使えるものは何だって使う、それだけだ。」

「使えない。と、今しがた報告されていたようだが?」

「だから鑑識班に回すと言っている。」

「それが肩入れではないとでも?」

「ああもう!煩い!」

いったい何だというのだ。自分は勝手にセラスを従属にして連れてきたくせに、人狼の一匹や二匹増えたところで何故こうも食い下がる。

「理由は私が化物を選別する変わり者だから。それから私が絶滅主義者じゃないからだ。以上!」

話は終わりとばかりに踵を返してドアへと向かおうとした途端に足元を掬われた。必然的に後ろに倒れた上半身が床に落ちなかったのは、当たり前のように支えた男の腕のおかげ。と言うべきかどうか。

「部屋に運んでくれと命じた憶えは無いが?」

抱きかかえられた状態で溜め息まじりに男の顔を睨み付けると、酷薄そうな薄い唇が笑みの形に歪んだ。

「部屋に送り届けるつもりも無い。」

言った男が大股でドアに向かう。迫るような速さで近付いてくるドアに思わず目を瞑ったが、ドアがひとりでに開いたのであろう事は、開いたドアのノブが壁にぶつかったと思われる音と、何の衝撃も無く男が歩を進め続けることで分かる。予想はしていたが、それと視覚情報に対する条件反射は別物だ。
非常に宜しくないパターンだと分かっている。しかし暴れて回避できたことは今まで一度だって無い。降ろせという命令に反する行為は、この男にとっては契約違反ではないという判断のようだから命じても無駄だろう。
駄々を捏ねる子供を相手にするように、呆れ気味にではあるがインテグラは悠長に構えていた。どうせいつもの行為に及ぶ、それすらも慣れた一日の終わりだ。決して望ましいことではないが。
だから男の足が地下へと続く階段を降り始めても、冷たい床は嫌だとうんざりしたくらいの事だった。
すぐ手前のドアがやはり乱暴に音を立てて開くまでは。
はて開くドアが些か手前すぎはしないかと怪訝に思ってドアから室内に視線を向けると、目を見開いて立ち竦むシュバリエの姿が見えた。そこに至ってようやくインテグラは男の意図に気付いたのだ。

「アーカード!!」

叫んでも後の祭りだが、このまま男の思い通りにさせてやるわけにはいかない。
狭いドアをインテグラを抱いたまま器用にすり抜けて部屋に入った男は、今の今まで後生大事に抱きかかえていたものを簡素なシングルベッドに無造作に放り投げる。バウンドするほどのスプリングの効きも無いベッドのおかげで、すぐに脇下のホルスタから銃を抜いて圧し掛かろうとする男に向ける事が出来た。躊躇なんかしない。この男にそんなものは必要ない。
続けざまに、2発。

「本気で撃ったな。」

「当たり前だこの馬鹿っ!」

言ってインテグラは舌打ちする。我ながらとっさにしては正確に撃ち抜いたと思う。思うが。
男はインテグラを見下ろしたまま、眉間に開いた穴から口元に伝ってきた血をべろりと赤い舌で舐めとった。ドレスシャツの胸元では、やや左よりに開いたその穴を中心に赤黒い染みが広がっていく。
―――――やはりベレッタでこの距離では貫通するか。
二発とも急所に命中している。相手がただの化け物や人間ならば致命傷。インテグラの爆裂術式を施した特性弾だが貫通してしまってはそれも発動しない。それでも即座に再生は出来ないところを見ると多少は効いているのか。ダメージにならなければ意味が無いが。

「それで終わりか?お嬢さん。」

弾はあと13発残っている。それを全て撃ち込んだからと言ってこの男を止められるかと言えば、否だろう。

「何だってこんな事をするんだ。」

ホルスタにベレッタを仕舞いながら、何とか言葉で男を牽制する策を練る。この男の行動が理解の範疇を超えているのは今に始まったことではないが、いくら何でも悪趣味すぎだ。

「自分が今、妊娠しやすい周期なのを知っていたか?」

「は?」

何を言っているのだろうこの男は。そんな事がいま何の関係がある。理解しがたい男の行動の意味を、それでも解析しようと断片的な情報を頭の中で組み立てる。
この男はシュバリエを殺せないのが面白くないからここにインテグラを連れて来たらしいが、インテグラにはそこからしてもう謎なのだ。しかも自分の排卵周期がどうだと言うのか。

「すまん、話がよく見えん。」

「どうやらお前はこのルーガルーを始末させる気が無いようだ。うっかり先を越される前に私が種付けをしておく事にしよう。」

その言葉を理解するには数十秒を要した。

「じょ・・・冗談・・・」

「では無い。」

言葉尻を捉えて男は続ける。

「私が吸血でしか繁殖できないと思っていたのか?生きた人間の女を孕ませられないとでも?」

この状況でこんなとてつもない爆弾発言をされるとは思ってもみなかった。今まで散々交わっておいて、そんな事ひと言も言わなかったではないか。何故今更そんな事を言い出すのか。
恐慌状態とも言える頭で、どうにかして男の狼藉を止める為の言葉を必死に探す。

「・・・お前、シュバリエを怖れているのか?」

「何だと?」

男は穴の開いた眉間に皺を刻む。何だかもうホラーというよりコメディだ。

「私がこの半人前を怖れていると?」

もう一度聞き返した男の声は怒気すらも孕んでいて、これ以上言わない方が良いとは思ったが、それでこの場が収まるとも思えない。ともかく、この男が話に乗って来ている間は不埒な事にはならない。筈だ。

「吸血鬼に匹敵する力を持ち得る化け物は人狼くらいだ。今は無理でも、そのうちお前を屠れるようになるかもしれない。」

そんな理由でもなければ、これほどまでにシュバリエを気にかける意味が分からない。シュバリエには悪いが、現状この男にとって彼は路傍の石程度の存在でしか無いはずだ。それを何故これほどまで執拗に始末したがる。

「そのうちとは?」

今度はその声音からは何の感情も読み取れなかった。本気で怒ったのか、有り得ないが急に平静に戻ったかのどちらかだ。
この男の考えている事は本当にいまだによく分からない。

「・・・100年くらい経てば、あるいは。」

「それは不可能と言わないのかね?」

化け物は年経るほど力を持つのが常ではあるが、そもそも人狼というのは長命な種族ではない。だからその能力値は血筋や生まれ持った才能に拠る所が大きい。自分たちを完全に謀っているのでも無ければ、現時点でのシュバリエの能力値では例え禁じ手まがいの術法を使っても、アーカードに勝つのは一生無理だろう。
そのくらいに規格外なのだ。この不死の王は。

「だから、お前と比べるべくも無いだろう。何をそんなにむきになってるんだ。」

そうだ、そうであるからこそ余計に分からない。
この男にとっては新しい人間の隊員を入れるのとさして変わらない筈だ。そしてそれには今まで異論を唱えた事など、当然一度も無いのだ。

「私に比類は無いと?」

「そりゃそうだろう。」

この男以上の化け物など居るものか。いや、ヴァチカンに1人居るが。とりあえずこの会話中にすっかり眉間の傷も塞がった、この白皙の吸血鬼が最上級の魔物であることは事実だ。
そうか、要するにこれは縄張りに入ってきた同種に対するマウンティングというやつか。全く下らない事に巻き込んでくれるものだ。
腹立ち紛れに何か行ってやろうと口を開きかけた瞬間、唐突に男が背を向けた。

「寝る。」

「!?」

さっさと部屋を出て行った従僕の赤い背中を呆然と見送る。こんな理不尽な扱いを受ける主人がどこにあろう。
いや、狼藉を回避するという目的は達したのだから喜ぶべきなのか。しかし憤懣やる方ない。

「糞っ!」

吐き捨ててからはっとして視線を巡らせる。シュバリエは最初に視界に入った時そのままの場所に居た。

「すまん、騒がせた。」

慌ててベッドから降りて立ち上がる。
「いえ・・・」と小さく返した人狼の青年の表情は甚だ複雑なものだった。
然もあらん。突然やってきた二人がベッドを占拠して言い争いを始めた上に、目の前で散々こき下ろされたわけだ。迷惑を通り越している。

「なぜ・・・」

「うん?」

「なぜ僕を殺さないんですか?」

アーカードはともかくとして、当人にとってはもっともな質問だ。しかしながらもう聞かれるのはうんざりの問いでもある。

「理由が必要か?」

「え?」

「君を拘束している理由は話した。それともここに拘束されてまで生きている理由が欲しいか?」

そんな事を言っている自分だってあらゆる理由付けをして生きているではないか。何を偉そうに。

「いえ、僕が聞きたいのは貴女が僕を殺さない理由です。」

理由などきっと作り出すことは容易い。丸め込むための虚言は考えようとすればいくらでも出せただろう。それが面倒だったわけではない。

「悪いが、そんなものは無い。」

「え?」

「殺しても殺さなくても良かったし、君である必要も無かった。強いて理由を付けるのならば、君が御しやすそうだったからだ。」

本音を言ったのは多分、そんな気紛れな自分にうっかり引き寄せられてこんな所にまで連れて来られてしまった彼に、ほんの少し同情したからかもしれない。我ながら惰弱だとは思うが。

「それは、僕が使い物にならなかったり御しにくいと思えば明日にでも殺すかもしれないという事ですか?」

殺しても殺さなくても良かったと言うのは連れてくる以前の話で、いったん自分の懐に入れたからにはインテグラにとっては他の隊員と同じ部下なのだ。そう簡単に始末しようとは思っていない。

「まあ、何とか使い物になってくれると助かるがな。御しにくいとなれば・・・」

実働部隊の連中にだって、最初からすんなりと受け入れられたわけではない。

「捻じ伏せて御すも一興だ。」

分からず屋の権力者どもをやり込める時に使う笑みでシュバリエを見遣ると、彼は一瞬にして顔を上気させた。怒りによるものなら見慣れた反応だが、どちらかと言うと予想外の表情だった。

「貴女は、ご自分が分かってらっしゃらないのですね。ロワの気持ちが少し分かりました。」

ロワ(王)とはあの男の事なのだろう。あの男にもよく、自分が分かっていないと言われる。

「どういう意味だ。」

「僕らのような種族には笑顔は封印した方が良いです。ピガールの客引きより性質が悪い。」

まさかモンマルトルの娼婦扱いされるとは思わなかった。あの糞神父にも散々っぱら売女呼ばわりされたが、どいつもこいつも全く失礼な話だ。
いや、存外に本質を突かれてるのかもしれない。本意では無いと言いながらあの男に身を任せているのは事実なのだから。

「私は高いぞ。」

冗談めかして言える程度には、自分は進歩できたのだろうか。

「ええ、命が幾つあっても足りなさそうです。100年経っても敵わないようですし。」

肩を竦めたシュバリエは、戦闘能力は皆無なのに意外と神経は図太そうだ。これなら変わり者だらけのあの部隊でも上手くやれるだろう。

「明日以降、部署を転属してもらう。理由は自ら作ることだ。」

役に立つかは分からないが、拾った犬をもう一度捨てるわけにもいかないし殺処分も可哀想だ。
言い残し、シュバリエの部屋から廊下に出て開け放たれたままだったドアを閉める。さて部屋に戻るかと体の方向を変えると、ドアのある壁面を背に男が立っていた。

「何だ、まだ居たのか。」

「返すのを忘れていた。」

男がインテグラの目の前に差し出した掌の上に載っていたのは、見覚えのある弾倉。
仕舞っていたベレッタを取り出そうとして、もうすでにその軽い感触に渋面を作る。目視で確認してもやはりグリップの中は空だった。いつの間に掠め取ったのか。油断も隙も無い。
頭の中に山ほどの罵詈雑言が浮かんだが、黙って男の手からそれを引ったくり即座に元の場所に収める。

「これが必要になったらどうするつもりだったんだ。」

「私がお前を危険に晒すとでも?」

「ふん、どうだか。」

今度から弾倉にも法儀式を施しておいてやる。ダメージにはならなくても嫌な気分にくらいはなるだろう。

「理由くらい、作ってやればいいものを。」

男が笑いを含んだ声で言う。
シュバリエとの話を聞いていたのか。本当に悪趣味なやつだ。

「何百年も掛かってまだ見つけられない馬鹿で手一杯なんだ私は。」

毒づいてやったにも関わらず、男は機嫌良さげに唇の端を吊り上げた。
本当に腹の立つ。

「それよりも、ちょっと来い。」

地上階へと昇る階段に向かいながら手招きすれば、男が更に含み笑う。

「これはこれは、主からお誘いとは珍しい。」

「違う阿呆。いいから来い!!」

地上階から執務室のある2階を通り過ぎ、3階にある私室を目指す。階段の途中でちらりと振り返ると、男は大人しく付いて来ていた。インテグラの通るルートをこの男が辿る必要は無いわけだが、変なところで律儀なものだ。
廊下から入ってすぐのリビングのソファに座ると、命じる前に男はローテーブルを挟んだ反対側に腰掛けた。

「またおしゃべりかね?主。」

サングラスを外して懐に仕舞った男が、肘掛けに頬杖をついて足を組んだ。面白そうに細められた紅玉がこちらへと向けられる。

「さっきのあれ、本当か?」

「あれとは?」

問いに疑問符で返してきた男の表情は、とぼけているのが明白だった。しかしここで動揺してはいけない。

「本当に、処女を吸血しなくても繁殖できるのかと聞いている。」

「多分な。」

「多分って何だ。」

「一度試そうと思った時にはお前の先祖に邪魔された。その後はこの有様だ。」

“彼女”の事を言っているのだろうか。

「・・・私が、そうなる危険性もあったわけだな?」

「それは無い。」

短い言葉で否定されてインテグラは眉を顰める。この男は嘘は吐かないが余程の事が無い限りは質問にしか応えない。それは聞かなければ言わないという事だ。正確な情報を得るのには結構な手順を要する。

「多分出来る筈の事が私相手だと絶対に無いと言い切れる根拠は何だ。ついさっきそうすると言ったばかりでは無いか。」

「どんな動物でも射精しなければ受精はせんだろう。」

射精しなければ受精しない。そんな当たり前の事は分かっている。
問題はこの男にはそれが出来るがしなかったと言う点だ。

「私に吐精しなかったのは、わざとか?」

私の立場を慮ってという理由はこの男に限って絶対に有り得ない。どうせ面倒な事になるのが嫌だっただけだろう。それはそれでこちらとしても助かったと言える。
では何だろう。この沸々と湧き上がる怒りは。

「何だ?して欲しかったのか?」

「ふざけるなっ!!」

思わず立ち上がって怒鳴りつける。また落ち着いて話す計画が瓦解したと頭の隅で思ったが、言葉にならない怒りが鳩尾の辺りで渦巻いていてとても収まりそうに無い。
自分は何がそんなに腹立たしいのだろう。
そんな重要な事を黙っていたことか。それを詰まらない理由で今夜やろうとした事か。それとも“彼女”の2番煎じにされかけた事か。
違う、どれも違う。
自分と男との間にあるローテーブルを足蹴に退け、上着とトゥラザースを脱ぎ捨てると組まれたままの男の膝の上に跨った。意表を突かれたように頬杖を離した男が怪訝そうな顔で聞いてくる。

「何の冗談だ、お嬢さん。」

「煩い、黙れ。」

その白皙を両手で挟んで唇を重ね、うっすらと開いたそこに舌を挿し入れた。
これでは本当に男の言うとおり、自分から誘ったことになってしまったが主導権を握れるのならばそれも良いかも知れない。
男がいつもそうするように歯茎や歯列に舌を這わせていると、ちくりと痛みが奔る。たぶん男の犬歯であたって傷がついたのだろう。それにも構わず男の舌を探ろうとすれば突然両肩を押されて引き離された。

「煽るな。」

口の中に血の香りが拡がる。目の前の化け物を叩き起こした血だ。この男にとっては食えない餌を鼻先にぶら下げられて匂いだけ嗅がされているにも等しい。嫌がらせとしてはまずますだろう。
しかしその嫌がらせは中断させられてしまったので、股の前にある男の赤いトゥラザースの釦を外してジッパーを下げる。張り詰めた布地の間からそいつが弾かれたように飛び出してきた。
準備万端とは随分とお手軽じゃないか。
黒い茂みの中から屹立するそれを両手で掴んで上下に擦れば、化け物のモノとは言え肉体の一部とは思えない硬さの剛直がさらにその質量を増した。こんなモノが本当に受け入れられるのかという疑念を抱いたが、今さらと言えば今さらだ。
何をやっているのだろうと自分でも思う。しかし何もせず為すがままになっている男がまるで『お前に出来るのか?』と言わんばかりで余計に腹が立って引くに引けない。
この男に良い様にあしらわれるのが嫌なら自分で動くしかないのだ。
そう自分に言い聞かせて片手を自分の腿の間に持っていく。以前この男の口車にまんまと乗せられてやらされた時は全く話にならなかった。何がいけなかったのだろう。自分で触っているという意識があるからか。ではこの男に触られていると想像してみてはどうだろう。
目の前の双玉を見据える。その瞳は血潮のように紅いのに冴え冴えとして、男がひどく冷静に見えて腹が立つ。どうしたらこいつを狼狽させられる。従僕に眺められながら自分の股座に手を突っ込んで、下着の上からとは言え自分のそれを弄くって。それでどうにかなるのか?
とは言えここまで来たらやるしかない。男の手管を思い出しながら指を動かす。前に挑戦した時よりは幾分ましのようだから何とかなるだろう。
無性に接吻したくなって、そうした。わざと男の犬歯に舌を押しあてて傷を付け、金属臭のするそれを男の舌になすり付ける。下腹の奥が、じんと切なくなってきたのを感じる。唇を離したら不機嫌そうな顔が見えた。主人の血を貰いながら失礼なやつだと思いながら、少しだけ溜飲を下げる。
布越しにも自分のそこが潤んできているのが指先の感覚で分かった。この男を受け入れるために準備された躰だ。浅ましいと言うしか無い。何をどう取り繕ってもやる事は同じだ。
腰を少し上げて下着のそこの部分だけを横に押しやりながら男の先端に密着させる。正確にはどこで受け入れるべきなのかよく分からないが、何とかなるだろうと高を括って腰を少しずつ下げた。が、上手くいかない。
ここまで来てこのような障害に突き当たるとは。
前に後にずらしながら幾度か挑戦するも、中々これといった適合箇所が見付からない。膝立ちの中腰がいい加減に疲れてきて、半ばやけくそ気味に腰を下ろした瞬間に息が止まった。
内臓を押し上げるような圧迫感と、何とも言えない違和感。何よりもその存在を誇示する、体温を奪わそうな冷たさ。やっと嵌まったそれを、注意深くゆっくりと全て飲み込んだ。訳の分からない達成感に息を吐く。ここからが肝心だがとにかく疲れた。少し休憩だ。

「気は済んだか?お嬢さん。」

いつもの揶揄するような薄ら笑いではなく憮然とした表情で男が問う。
冗談ではない。ここまで来て降参したら、いつものように組み伏せて見下ろして私を笑うのだろう?

「未だだ。いいから黙ってじっとしてろ。」

さて、やるか。
ゆっくりと腰を上げて、下ろす。太くなった部分が中を擦っていく刺激に、背筋を電流が奔り抜けた。二度、三度と男のモノをぎりぎりまで引き抜いて収めるを繰り返す。たったそれだけで膝が震えて力が入らない。いつも男に与えられるものの、その断片でしか無いのに。
繋がっている場所に手をやってみると、分かってはいた筈なのに自分の分泌物に驚いた。さっきまで布越しに触れていたそこに触れれば、中が収縮した気がする。男が眉を寄せたからきっと間違いない。
自分で動くのは諦めて男の上に腰を下ろし、そのままぬめりを帯びたそこを指で擦る。男の視線が絡みついてくるようで、それから逃げるように視界を遮断した。
到達点だけを目指して手を動かし、自分を追い立てる。身の内にある男のモノが存在感を増したような感触に、頂点が近付いてきたのを悟った。
息を詰めると同時に躰が強張って、数度の痙攣との後に波が過ぎ去るのと同時にゆっくりと息を吐き出す。しばらくそのまま息が整うのを待ってから、意を決して腰を上げた。
まったく衰えた様子の無い男のものが躰の中を出て行くだけで身震いする。こいつを満足させるのが目的ではないし、また出来よう筈もないから別にどうという事はない。
腰が重くて絨毯の上に下ろした足も何だかふわふわと感覚が無いが、それを隠して上着とトゥラザースを拾い上げて避難先であるバスルームへと足を向ける。

「終わりか?」

男の不機嫌そうな声が背中にぶつかる。
そうとも、これをこいつに言ってやる為に恥ずかしいのを我慢してここまでやったのだ。
唇を笑みの形に歪め、バスルームのドアに手を掛けながら男を振り向いて応えてやった。

「ああ、私は満足したからお前は下がって良いぞ従僕。」

いつもいつもやられてばかりでなるものか。

「随分と虚仮にされたものだ。」

男がそそり立った凶器を仕舞わぬまま立ち上がって、ゆっくりとこちらに向かってくる。情けない話だが、ここは逃げるが勝ちだろう。
男との距離が縮まる前にバスルームへと逃げ込みシャワーのコックを急いで捻った。着ていたままのシャツや下着が濡れたが仕方が無い。
きいと浴室のドアが開く小さな音に、水滴からはみ出さない様に用心深く振り返る。

「無駄だ、お嬢さん。」

入口でそう言った男の足はまだ浴室内には踏み込んでいない。十字架も大蒜も効かなくても、流れ水はどうだ。

「へえ、本当―――――」

本当かと聞く前に浴室の壁に貼り付けにされた。畜生め、流れ水も駄目か。

「私は、下がれと言ったんだ。」

「散々煽っておいて自分だけ満足すればそれで良いのかね。」

男に腰を引き寄せられてどきりとする。さっきまで私の中に居たそれが腹にあたった。

「お前が満足することなんてあるのか?」

人間の男なら吐精をして終了だろうが、この化け物は私にそんな事はした事が無いと言う。化け物だから吐精が到達点ではないのかも知れない。しかしだ、いつだってこの化け物の性欲に体力が付いて行けずに先に昏倒させられるのはこちらだし、そもそもこの男が満足したかなんて自分には関係の無い事だ。

「犬が満足するまで遊んでやるのが飼い主の義務とだろう。」

そんな勝手な事を薄ら笑いで言った男に、いきなり貫かれた。あんなに苦労したというのにいとも簡単に。
まだ余韻の残っていたらしい躰が、自分の思いとは裏腹に勝手に反応して震える。

「やっ・・・」

「男を煽る時はそれなりの覚悟をする事だ。」

両足を抱えられて更に深く穿たれた。激しく揺さぶられ最奥を突かれる感覚は凶暴で、脊髄どころか脳まで焼くようだ。声を上げるどころか呼吸もままならず、心臓が悲鳴をあげるような速さで脈打ち始める。

「中に出すぞ、お嬢さん。」

定まらぬ思考の中、男の言葉の意味を懸命に考える。
何を、何と言った。

「待っ・・・て・・・駄目・・・」

躰を揺らされて上手く言葉が出せない。
駄目だ。止めなければ。そんな事が許されるはずが無い。
何とか意思の疎通を図ろうと男の顔を見る。見たことの無い表情だ。辛い?苦しい?化け物のお前でも?
いつも薄ら笑いで自分を見下ろしてる男の苦悶の表情は胸のつかえをすとんと落とした。
今さら誰に許しを請う。地獄行きは決定事項のこの身の上だ。

「う・・・ん・・・分か・・・った・・・」

男が怪訝そうに眉尻を少し上げた。

「いい・・・ぞ・・・」

言った瞬間に男がひと際激しく腰を打ち付けてくる。目の前が真っ白になって、一度目とは比べ物にならない程の絶頂に到達した。いつの間にか男の背に回していた手でケープを握り締め、躰を強張らせると同時に男が中から出て行く。大柄な体躯が自分を抱えたまま、幾度か引き攣れる様に揺れた。

「・・・アーカード?」

呼びかけに無言のままの男に、抱えられていた足を下ろされてその場にへたり込む。すぐには立てそうに無いほど足腰の感覚が無い。

「魔女め・・・」

「なっ、何だよそれ。」

確かにそうだが、その吐き捨てられ具合は引っ掛かるものがあるぞ。

「私を嵌めようとは油断がならんな主。契約違反で消滅させられては困る。」

つまり契約に抵触しそうだから吐精できなかったと言う事なのか。せっかく覚悟したのに。
しかし契約に触れそうだと言う事は『人としての私』の生命を揺るがす惧れがあったと言う事だ。我ながら血迷っていたとは思うから、契約がきちんと効力を発揮したというのは有り難いことではある。
思い出しても空恐ろしい。何て事を許したのだ。可能性は、きっと低くは無かった。
でも契約の所為と言えど止めてくれたのだ。この男は自ら。

「アーカード、ちょっと立たせてくれないか。」

膝にも腰にもまだ全く力が入らない。その原因に頼むのは業腹だが他に居ない。

「悪いなお嬢さん、自力で何とかしろ。」

言うなり男はとぷんと床に消えた。嘘だろう、幾らなんでもあまりに酷いではないか。
いや、ひょっとしたら流れ水はやはりそれなりにダメージにはなったのだろうか。
どっと疲れが襲い掛かる。このままここで寝入ってしまいそうだが、そんな訳にはいかない。手を伸ばしてシャワーのコックを捻り温水を止め、ずっしりと重くなったシャツの釦を外そうとすると、どろりとしたものが手に触れる。よく見るとあちこちに白濁した粘液が付着していた。
止めた。のではなかったらしい。雄のメカニズムはよく分からないが、こんな生き物のような事も出来るのか。
あの男の事はまだ分からない事だらけだ。その生態(?)も性質も。
背中を本物の悪寒が奔ってぶるりとする。濡れたままで考え事をしていたら体が冷えてしまったらしい。このままでは風邪をひいてしまう。何とか着替えてベッドに行かねば。そう考えて必死に躰に鞭打つ。
数時間後にはまた、いつもの一日が始まるのだから。




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