◆組曲―courante―


 雲は厚いがまだ降りそうにはない。そんな曇天を窓越しに見上げながらインテグラは溜め息を吐いた。

「お嬢様、そろそろお出掛けになりませんと。」

とうとう執務室にまでやってきた執事にそう促され、インテグラは渋々と窓際を離れる。

「やはり行かなければ駄目か。」

「はい、それが先方の条件ですので。」

「何もフランス人に頼まなくても優秀な職人なら英国内にも居るだろう。」

「お言葉でございますがお嬢様、残念な事に今や彼の右に出る者は、この英国はおろか欧州中を探してもおりますまい。」

分かってはいるのだ。好き嫌いで物事を言っている場合でない事は。

「少々変わり者なのは職人にはありがちな事です。申し訳ございませんが我慢なさって下さい。」

信頼する執事にそう言われてしまっては、これ以上子供みたいに駄々を捏ねる事も出来ない。
普段持ち歩いたこともない鞄にシガーとライター、それから書斎で見繕った本を放り込んで、インテグラは屋敷を後にする。駅までは車で行き、改札を通りホームまで来たのはギリギリと言えばギリギリで、インテグラはほとんど待つことも無く汽車に乗り込んだ。
10時25分、セントパンクラス駅発のユーロスターは定刻どおりに駅を出発した。目的地のパリまでは2時間あまりの旅。海を隔てたフランスまではドーヴァーの下を通ってほんの小一時間で着く。
職人気質の男が対面ではないと依頼を受けないというのはよくある事だし納得も行く。力を借りようと思えば礼を尽くすのも当然だと頭では分かっている。しかし気が進まない。
予約していたコンパートメントに入りかけ、新しくインテグラの護衛についた2人が空かさず入り口の両脇に立ったのを見てインテグラは眉を顰める。

「隣のコンパートメントも取ってあるからそっちに居ていいぞ。」

「は、しかし・・・」

「我々は秘匿機関だ。個室の入り口に強面のボディーガードが立っていたら人目を引いてしまうだろう。良いから隣に入れ、何かあったら呼ぶ。」

二人がしおしおと隣のコンパートメントに入ったのを横目にドアを開いたインテグラは、声を上げかけすんでの所で押しとどめた。努めて平静を装ったままドアを閉め、向かい合わせに設置された椅子の片側に腰掛ける。
椅子は4人分。インテグラは隣の椅子に鞄を置いて、対面の窓際の席から伸びた足を蹴りあげた。

「こんな所で何をしている。」

憮然とするインテグラにそう言われた男は、白皙に人の悪い・・・人じゃないが・・・笑みを浮かべて今しがた蹴られた長い足を組み直す。

「勿論、主人の警護だ。」

「いらん、警護ならちゃんと居る。」

「あの新米どもか?お前も大変だな。」

「誰のせいで・・・」

怒鳴りかけ、はっとして声のトーンを落とす。隣の彼らが色めきたつといけない。

「私の警護に着いたのが最近と言うだけで機関内ではそれなりのキャリアのある者達だ。問題無い。」

思い出しても腹立たしい。
ローマカトリック信奉者以外は人間では無いとでも思っているのか。あの傲慢な神父にネッドとマックスは殺されたのだ。
腹立たしいのはこの男もだ。まだ塞がってもいない人の傷口をつついてそんなに楽しいのか。

「それで今日はどちらにお出掛けかな?我が主。」

偉そうに主人のコンパートメントでふんぞり返った下僕を、インテグラは冷たいサファイア色の瞳で睨めつける。

「職人の所へだよ従僕。神父ふぜいに遅れを取ったお前のせいで、この私がフランスくんだりまで出向く羽目になった。」

「ほう。」

厭味部分はまったく聞こえなかったらしい男は、目を輝かせるといった形容が些か不似合いな邪悪な喜色をその美貌に浮かべる。余程あの神父との邂逅が嬉しかったらしいのが見て取れて、インテグラはさらに腹が立った。

「いくら良い武器を授けてやっても負ければ一緒だがな。」

「私が負けるとでも?」

「現に切り刻まれて首を落とされたお前がもたついている間に、護衛が2人殺され私も危険な目にあった。」

「お前が受けれた神父の銃剣にやられるなど、そもそも護衛の資質に欠けていたのだろうよ。」

「・・・口を慎め。」

「ピンチに陥ってまた主に助けてもらうのも悪くない。臨戦状態のお前はそそる。あの格好も悪くない。」

にやりと淫猥な笑みを浮かべた男の下劣な口を黙らせてやろうと、インテグラは立ち上がり男の鳩尾めがけて足を振り下ろした。しかしその無謀な攻撃はやはり実らず、易々とその足を男の手に捉えられる。

「そう怒る事は無いだろう。」

「黙れこの糞犬。」

「そういう高圧的な態度と恫喝は、場合によっては上手くいく筈の交渉まで困難にするものだぞ。」

「煩い私に偉そうに説教をたれるな。この―――――」

更なる罵倒を発する前に、掴まれた足を持ち上げられてひっくり返された。座席にしたたか背中を打ち付けながら再びそこに腰掛けることになったインテグラの足を膝裏に抱えなおした男は、膝が肩に付くほどインテグラの体を折り曲げさせて鼻先近く顔を寄せる。

「首尾良く交渉が上手く行くよう私にも手伝わせて頂こう。」

言って男は冷たい死人の唇を主人のそれに重ねる。弾力のある唇を舌でこじ開けようとした男が、食いしばった歯列に当たって口の端を吊り上げる。膝を持ち上げている手とは逆の手でインテグラの頬を掴んで無理やり顎を開かせ、今度こそ舌をねじ込んで頬の内側へと這わす。歯茎や舌の裏を丹念に舐り、唾液の分泌を促して啜り上げては逃げる舌を絡め取った。苦しげに顔を顰めた女の、鼻から漏れる吐息に甘さが混じり始めるまで。

「な・・・にを、言ってる・・・この、気違いめ・・・」

不足した酸素を補うようにブレスを入れながら言ったインテグラの、ベルトとトゥラザースの袷を器用に片手で解くと、男は中に手を忍び込ませた。

「何してんだ!!この馬鹿!!離せっ!!」

「静かにした方が良いのでは無いか?隣の奴らが何事かと覗きにでも来たら事だろう。」

ぎくりと口を噤んだインテグラの反応にほくそ笑み、挿しいれた手を蠢かす。絹の下着の上からゆっくりと花弁にそって指を這わせ、薄い布越しにそれと分かる花芽にほんの少し力を込めると、インテグラが小さく躰を振るわせた。円を描くように捏ねまわすうちにそこはくっきりと存在を誇示し始め、じんわりと滲み出た蜜が尖った花芽の周りの布の感触を変えていく。

「っ―――――」

懸命に声を殺すインテグラの躰がびくりと跳ね上がる。下着の脇から入り込んだ指が花弁を割って押し入ってきた。潤んだそこにでも感じるざらりとした抵抗感と縫い目。敏感な部分を擦る強い刺激が素手とは違う疼痛を生む。やがてインテグラの蜜を吸い取れなくなったのか、抵抗感が消えて濡れた音がし始めた。
花弁の狭間で蠢かされる指はしかし決定打とはならず、もどかしさを訴えるように男のケープを握り締めると途端に手を引かれた。

「失礼、主はこのような場所で事に及ばれるのはお好きでは無かったな。」

一瞬呆然として、我に帰って息を吐く。
助かったと思うにはあまりにも複雑な気分で、インテグラはやっと思考の戻ってきた頭で言葉を探す。

「分かっているなら、最初から下らない事をするな。」

「肝に銘じておこう。」

男はしれしれと答えていつもの人を食った笑みを浮かべた。





 パリの下町の一画。ガブリエル・ドラクロアは至極上機嫌で、弟子の淹れた昼食後のカフェ・オ・レを飲んでいた。
もうすぐ客が来る。
自慢じゃないがこの業界では自分が一番だと思っている。だから客も仕事も厳選している。
今日の客は師匠の代から付き合いのある英国のお嬢さんだが、だからと言って無条件に仕事を請け負う気はない。
初めて会ったのはまだ自分が師匠の家で修行していた頃だからもう10年近く前になる。
父親が死んで家督を継いだと言うその娘は、自分と大して変わらぬ年頃の癖にやたらと態度が大きくて、師匠に対する尊大な物言いに腹が立ったものだった。しかし慣れと言うのは恐ろしい。そう頻繁に顔を合わせるわけではないが、いつの間にかそんな不遜さもだんだん平気になってきた。自分が年を食って余裕が出来たというのもあるだろう。
あの偉そうな女が自分に仕事を頼みにわざわざ足を運んでくるのは正直言って悪い気はしない。
英国の良家のお嬢さんにしては少々変わった肌の色をしているが器量は悪くない。どちらかと言えば上級の部類に入る。少しは華のある格好をしたら良いのにいつ見ても無粋な眼鏡を掛けて暗い色をしたパンツスーツ姿でいる。 ちょっとした冗談にもすぐに憮然となるお堅いお嬢さんだ。特に猥談なんか持ち出した日には即座に席を立つ有様だから、こちらもからかう楽しみがあるというものだ。
絶対にあれは処女だな。そんな事を鼻歌交じりに考えながら、ドラクロアは彼女の執事が前もって送って寄越した依頼書に目を通す。あの主人にしてこの使用人あり。と言ったようなきっかりとした執事の鑑のような男だったと記憶しているが、いくら何でもこの依頼書は間違いに違いない。コレクション用の飾りにするならいざ知らず。そもそも飾り用なら自分の所にではなく飾り用の職人のところに行くだろう。
高慢な女への嫌がらせのネタを手にしたドラクロアが、にんまりしながらその注文書を接客用のテーブルにぽんと置いた時に、弟子のミシェルがドアを開けて顔を覗かせた。

「師匠、お客さんが見えました。」

「ああ、通せ。」

さあ、『軽薄で我儘なフランス男なんて大嫌い』と今日もまた顔に貼り付けて来たであろうお嬢さんを、満面の笑顔で迎えてやろうとドアを通ってきた人影にドラクロアは立ち上がり、手を広げて見せる。

「やあ、ようこそヘルシングの。」

それだけ言ってドラクロアは予定していた次の言葉を思い出せずにぽかんと口を開けたまま固まった。
相変わらず冴えないパンツスーツ姿の女は記憶の通りの仏頂面で、自分の知っているヘルシング卿に間違いない。しかし無粋なシルバーフレームの眼鏡ごしにも潤んだサファイア色の瞳と、塗れた様に艶やかな唇に思わず息を呑んだ。

「いつからフランスでは客をじろじろと見回すのが礼儀になったんだドラクロア。『せっかくフランスまで来たのだからメゾンにでも寄って来い』などと言うつもりなら、余計なお世話だぞ。」

いつもの愛想のかけらもない口ぶりに、ドラクロアは我に返って素直に謝罪を述べる。

「ああ・・・すまない、まあ掛けてくれ。」

女は少しだけ怪訝そうに眼鏡の上の眉を顰めたが、言われるままドラクロアに示されたソファに腰掛け、鷹揚に足を組んだ。向かいのソファに掛け直しながら、ドラクロアはやっと気付いた自分の動悸の原因を探る。
顔が綺麗でセクシーな体をした女ならフランスには腐るほど居る。言っては何だが不自由した事も無い。その自分がこの可愛げの無い女の色気・・・ああそうだ、色気だ・・・に中てられてガキみたいに胸を高鳴らせている。こんな味も素っ気も無さそうな女にだ。
きっと男が出来たのに違いない。こんな風に豹変するから女というのは恐ろしい。

「お前、どこか悪いのか?」

顔を顰めたままのその台詞は、ドラクロアの体を心配してと言うより仕事が出来るのかどうかの心配だと分かってはいたが、その声に含まれる艶に勘違いしそうになる。
こんな高慢な女を征服するのはどんなに気持ちが良いだろう。いったいどんな男がこの女を組み敷いて啼かせられると言うのか。そんな不埒な妄想を振り切るように、ドラクロアはテーブルの上の書類を再び手に取る。

「この注文書、軽く目を通したが何かの間違いじゃ無いか?この通りに作ったら人間に持てるような代物じゃ無くなるぞ。」

「ウォルターが間違いを気付かずにお前に送るなど有り得んよ。それはそのまま作ってくれれば良い。」

「だがな、こんなモノを作ってもいったい誰が―――――」

書類に目を通すこともせずに言い切ったインテグラに反論しようと視線を向けたドラクロアは、先ほどから彼を落ち着かない気分にさせている女が座ったソファの後ろに立つ紅い長身を視界に納めた。
不法侵入を咎めるのも忘れるほど唐突に現れた男の姿に、現実味が無くドラクロアは目を瞬く。そしてやはりそこに歴然と存在する人影に、やっとやらなければならない事を思い出した。
呼びつけた依頼人が当の我が家で危害を加えられたなど、今後の商売に響く。

「おい、貴様どこから入った!!」

ソファセットのローテーブルの引き出しに収められた自分の作品を素早く取り出して不審者へと向けたが、男は洒脱な仕種で肩を竦めて見せただけだった。インテグラはちらりと背後に視線をやってから、眉間に皺を刻むと男がそうしたようにやはり肩を竦めて見せた。

「これは私の従者だドラクロア、そして今回の依頼したモノの使用者でもある。この通りマトモじゃ無いからどんな規格外の銃でも構わない。」

師匠の代からの付き合いだ。ヘルシング家を中核とするヘルシング機関が何の為にあるのかもだいたい知っている。

「しかしそいつは・・・」

ピジョンブラッドの瞳に見下ろされ、ドラクロアは言葉を呑み込んだ。
化け物退治の専門家が当の化け物を飼っているなどと正気の沙汰ではない。それもひょっとしたら見たところ最悪の部類に入るやつではないのか。こんなものに、人間の武器を与えて本当に良いものか。

「主、どうやら職人は私がお前に仕えている事を信用しておらんようだ。」

地を這うような声が嗤う気配で女に言った。

「ああ、そういう事か。」

なんだ、という風に女が言う。
その会話は小気味が良いほどテンポが良かった。

「ご命令を、MyMaster.」

優雅に胸に片手をあて腰を折った男を横目に、女は思案するように眼鏡を中指で押し上げる。

「命令ね・・・この場合は屈辱的なのが効果的か?」

「御心のままに。」

「私の足にキスしろ従僕。」

「Yes,Master.」

男はソファの後ろからインテグラの前に回って来るとその場に跪き、組まれた上の方の足の靴とソックスを脱がせて親指から順番に口付ける。をれを女はソファの肘掛けに頬杖をついたまま、冷たい瞳で見下ろしていた。
その光景は屈辱的と言うよりも官能的ですらあって、ドラクロアは口の中に溜まった唾液を気付かれはしないかと心配しながら呑み込んだ。

「もういい、お前がこの化け物をよく手懐けているのは分かった。」

これ以上は目の毒でしか無い。夜になったらモンマルトルに行こう、そうしよう。

「それで、依頼を受けるのか受けないのか?」

そもそもこんな面白そうな仕事を断るつもりも無い。フルオリジナルなど今どきそうは作らせて貰えない。しかも誰も作ったことが無いような規格外の代物だ。

「前金をスイスの口座に、あとは引渡し後に経費と追加工賃を請求する。」

「OK.契約成立だな。」

男にソックスと靴を履かせてもらった足を組み換えて、女がにやりと唇を吊り上げた。





 「どうだ、話が簡単に済んだだろう。」

いかにも自分の手柄と言わんばかりの男を一瞥し、ふんとインテグラは車窓の外へと目を向けた。しかし既に海峡下のトンネルに入ったユーロスターの外はただの暗闇で、時おり電灯の明かりが一瞬通り過ぎるのみだ。

「何を言ってる、話が早く済んだのは単にあの男が少しばかり分別がつくようになっただけだろう。」

「分かってないな、お嬢さん。」

腕と足を組んで腰掛けるインテグラの前に立ち、男は主人の頬から耳に向かって月光色の金糸を掻きあげた。
ぞわり、と躰の奥底から何かが脊髄を駆け上がってくる。そんな感触を払拭するかのように耳を塞ぐように添えられた、血色のペンタグラムの描かれた手袋に包まれたそれを払い除けた。

「だいたい、お前やりすぎだぞ。」

「何の事だ?」

「靴の上からちょっと接吻するふりだけでよかったんだ。あそこまでする事ないだろう。」

我ながら酷い命令を思い付いたと思って後悔したがドラクロアの前で動揺を見せるわけにも行かず、調子に乗ったこの男のなすがままにはさせたが平然として見せるのに理性と忍耐を総動員する羽目になった。

「危うく熾き火が燃え上がるところだったか?」

男が狡猾な悪魔の笑みを浮かべる。そうだ、この男の魂胆は分かっている。こうやって自分を翻弄して面白がっているのだ。それにいつまでも負けてやってなるものか。
身の内に燻る焔を意識しながらも、インテグラは断固とした意思を視線に込めて男を睨めつける。

「お前は人前で主人が恥をかいて本望か?」

恥も外聞もこの男には無縁のものだと分かっていても、そう恨み言を言わずにはいられない。

「まさか、取引相手が異性なら性的魅力も武器になると思っただけだ。何も恫喝や懐柔ばかりが策ではないだろう主。」

肩を竦めて応えた男にインテグラは渋面を作る。

「ハニートラップと言うのは仕掛け人にそれなりの魅力があって成り立つものだろうが。お前ら化け物たちには何らかの効果があるようだが、あくまで私は化け物向けだ。人間向けではない。」

肘掛けに片肘をついた手の上に顎を乗せた男が喉で嗤う。

「お前は本当に分かっていないな、お嬢さん。」

「分かっていないのはお前だ。悪食のお前には分からんかもしれんが、リリスが『化け物にとって美味い人間は被る』と言っていたように、人間にとっての『魅力的な異性』もやはりそれなりに限定されるんだ。」

「分からんな。」

「だろうな。」

この男に分かるはずも無いと話を終わらせようとしたインテグラだったが、男は問答をやめるつもりは無さそうだった。

「私が分からんと言ったのはお前の事だ。お前は仕事の為なら何をも厭わないと言いながら、自らのセクシャリティを利用する事を嫌悪している。そんなに自分が女である事が厭わしいか?」

「・・・ああ、その通りだ。」

そうだ。男に生まれていれば、あるいは叔父を殺さずに済んだかもしれない。円卓にもっと溶け込めたかもしれない。無様な姿をこの男に散々見られることもきっと無かっただろう。

「私に抱かれるからか?」

立ち上がって男の頬を張った手は、その言葉を止めるには遅すぎた。しかもその手を引かれて男の上に倒れこむ。

「っこの・・・」

罵倒しようとしたが、大きな手に鼻ごと塞がれた。

「隣の奴らがすっ飛んでくるぞ。」

行きと同じやり取りにうんざりとしながら腕を突っ張ったが、既に背中に男の手が回っていた。
座る男の膝の間で床に跪いた格好で絡め取られ、口を塞いでいた手がそのまま顎を掴んだと思えば今度は男の唇が下りて来る。行きがけと違って最初から無理やり開かされた歯列に割り込んできたものに、口腔内を蹂躙されて息が上がる。
化け物のお得意のその気にさせる為の口付けは、行きがけに昂ぶらされた躰には覿面で、インテグラは痺れたように力の入らない手を握り締めて冷静さを保つ事に全神経を尖らせた。
散々口の中を嘗め回してから離れた唇に息を吐き、男と目を合わせないように顔を背ける。

「・・・今すぐ私を放せ従僕。」

「それは命令かね?」

「命令だ。」

男の手が背中から離れてくれたのにほっとしたが、気付かれてはいけない。感覚が鈍ったような感じすらする足を気力で奮い立たせて席に戻ると、いつも分からず屋の警察連中に見せる時のとっておきの冷笑を作った。

「いつもいつも、お前の思うとおりになると思うな。」

きっと今、躰のどこか一箇所でも触れられたら簡単に崩れ落ちるだろう。それでも、否、だからこそ、今度は男の目を見据えた。そこにあったのは予想したいつもの皮肉めいた笑みではなく、眉間に皺を刻んだ男の渋面。

「なかなか楽しませてくれるではないか主。」

全く楽しくも無さそうな表情で男が言う。それはインテグラがこの男に一泡ふかせられたと言う事だ。
睨み合った2人を乗せたユーロスターが暗闇のトンネルを抜けだす。
しかし窓から入る光は弱々しく、朝よりもさらく低くなった空からは今にも一雨来そうな雲行きだ。セントパンクラス駅に着く頃には降り始めている事だろう。

「影に入れ従僕、主人の慈悲だ。」

渋々言ったインテグラに男が眉間の皺をさら深める。吸血鬼は流れ水を嫌うが影の中は別領域らしいから屋敷に帰るにはそれがこの男にとっても一番いい筈だ。

「本当にいいのか?」

「何かやらかす気なら許さん。」

影の中から悪さをされたことは無いが、この男になら出来なくは無い気もしてきた。

「やらかすのは私ではない。」

「どういう意味だ?」

「フランスから何か付いて来ている。」

一瞬、開いた口が塞がらなかったがすぐに立ち直った。

「そんな事は早く言え!」

「英国に入らん以上はお前の敵では無いのかと思ってな。」

嘘だ、絶対に面白がって隠していたに決まっている。

「何かって何だ。」

答えを期待した問いではなかったが、男はあっさり吐いた。

「ガルーだな。」

「人狼?」

もう一度、男の言葉を反芻する。

「付いて来ているって、どっちにだ?」

「どっちにとは?」

「お前にか、私にかという事だ。」

「なぜ私に付いて来る。」

「いや、まあ何となくだ。じゃあ私に付いて来ているんだな?」

「多分な。」

それなら話は簡単ではないか。
インテグラがそう思って話を終わらせたところで丁度汽車は駅舎へと入って停車した。
闖入者のせいでとうとう一服も一読も出来ず用を成さなかった鞄を手にとって立ち上がり、さっさとコンバートメントを出る。護衛の2人はドアのすぐ前に既に待機済みだ。

「おい。」

不機嫌そうな男の声に、うっかり忘れそうになっていた従僕を振り返る。その視界にいつの間にかすぐ背後に立っていた男のリボンタイが飛び込んできた。

「ああ、で、お前はどうする?」

視線を上方へと修正して訊ねた、すっかり自分から獲物に興を移した主人を男は不機嫌そうに見下ろす。

「何を考えている。」

「別に。」

付いて来てくれるのならわざわざ人の多い駅や街中で事を構えなくてもこちらが戦いやすい場所におびき寄せれば良いだけの話だ。いや、しかしぼやぼやしていて途中で目移りされては困る。
取り逃がしては事だとドアへと急いだインテグラは、黒服2人と綺麗だが奇抜な格好をした男3人を引き連れた自分が大層目立つであろう事に気が付いた。

「お前たち、先に言って車を回しておいてくれ。」

「は、しかし・・・」

朝方と同じ台詞で戸惑う護衛たちを、アーカードが居るからと問答無用で追い払う。

「どうするつもりだ。」

急いでいるのに尚もしつこい従僕に、インテグラは溜め息を吐いてから一転にっこりと微笑みかけた。

「お前の言うとおり、使える武器を厭っていてはいかんと思ってな。何せ私は化け物向けだ。それよりお前が居るせいで近付いてきてくれないと非常に困るんだ。いいから離れてろ。」

「私が離れて、どれがガルーだか分かるのか?」

「分かる。」

話は終わりだとばかりにインテグラはホームへと急ぐ。ああは言ったが確信があったわけではない。それでもすぐに見付けられた。
インテグラが昇降口からホームに降り立つと同時にひとつ向こうの昇降口から降りた青年と、まるで運命の出会いのように視線が通い合った。時間にすればほんの数秒。インテグラとは少し系統の違う浅黒い肌に茶色がかった黒髪で、とても綺麗で端整な顔立ちをしている。微笑みかけて歩み寄ると少し驚いた顔をした。当たり前といえば当たり前だが、その表情が怯えも含んでいて如何にも化け物らしくもあり化け物らしくも無く。

「旅の方?そこに立ち止まっていては邪魔になりますよ。」

そう言うと青年はインテグラの視線に従うように背後の昇降口を振り返り、渋滞してしまっているその有様を見て慌ててその場を避けた。後ろから降りてきた人々にぺこりぺこりと頭を下げて、列が途切れるとようやくインテグラを振り向いた。

「あの、すいません。有難うございます。」

金色の瞳だけが唯一狼らしいと言えなくも無い、そんな柔和な雰囲気の青年だった。
さてどうやって屋敷まで引っ張っていこうかと考えあぐねていると、青年は落ち着かない様子でインテグラの後ろにちらちらと視線を動かした。振り向かなくてもそこに何があるかは分かっているが振り向かなければ仕方が無い。

「あのな、離れてろって言ったよな。」

振り向きざま溜め息混じりに言ったインテグラに、男はサングラスの上の片眉だけを器用に上げて憮然とした声で応えた。

「先程から殺気を送っているのに反応なし。この程度の半人前ならひと口で済むぞ主。」

ひと口で済もうがふた噛みで済もうが、ここが人目の多い場所柄でそれを避けたいから策を弄しているというのに。主人の許しも得ずに貼った猛犬注意ステッカーが効かなかったからと言って、勝手に出てきた従僕の道理の分からなさと来たら本当に腹立つ。それで思わず青年の手を掴んで走り出した。この男を捲けるとも思っていないがホームを出て手近なカフェへと飛び込む。立ち飲みのカウンターに立つと隣で「あの・・・」と申し訳無さそうな声がしたので、思い出して慌てて手を放した。

「すまない、突然驚かせてしまったな。お詫びに奢る、何がいい?」

言ってから、そういえば人狼は何を食べるのだろうと考える。やはり肉食なのだろうが、この青年は人に危害を加えそうには見えない。それとも、それが手なのか。

「さっきの人、良かったんですか?」

まさか、あの男が吸血鬼だと気付いていないのだろうか。

「ああ、付き纏われて困っていたんだ。」

笑い掛けてやると青年も薄く苦笑する。

「インテグラだ。君は?」

「・・・シュヴァリエ。」

「いい名前だな。英国には遊びに?それとも仕事で?」

当たり障りのない世間話のていで聞くと青年は、拳を作った片手の人差し指で唇を塞ぐように押さえて考え込んだ。どう言い繕うかを考えているのだろう。
注文を取りに来たウェイターにとりあえずラテをふたつ頼んだ。

「貴女を追って来ました。」

唐突に手を下ろし口を開いた青年のまさかの直球に驚いた表情を隠すことを忘れ、失敗したかと思ったが普通は誰でも驚くところだろうからそれはそれで良しという事にしておこう。

「見掛けによらず口が上手いな。」

「本当です!」

切実な顔でシュヴァリエがインテグラの手を握ってくる。この展開はあまり予想していなかった。

「ひと目見てこの人だと思ったんです、僕の子供を産んでください。」

「・・・・・は?」

一瞬だけインテグラの思考が停止した隙を突くように、視界に大きな手が入ってきたかと思うとシュヴァリエの頭の頂点をバスケットボールか何かの様に鷲掴みにする。視線を移すとサングラス越しにも分かるほど剣呑な笑みを浮かべた白皙に行き当たった。

「良い度胸だ小僧。」

「ちょっと待てアーカード。」

「何だ、まさか絆されたか主。」

「いや、そうじゃなくてだな。とにかく放せ。」

今にも唸りそうな顔で渋々と男がシュヴァリエの頭を放す。どっちが狼だか。

「何なんですかこの人。」

頭を抱えて縮こまったシュヴァリエがアーカードを振り返ったが、やはり怯えている様子は無い。

「君は、本当に人狼なのか?」

「えっ!?」

あまりにも鈍いので人違い・・・狼違い?・・・をしたかと思ったが、慌てた表情を見たところどうやら間違いないらしい。
ラテを持ってきたウェイターが一瞬胡乱げな眼差しを向けて戻っていく。人相の悪い男女が気弱な外国人青年を囲んで脅しているとでも思われただろうか。

「なっ・・・なんで・・・」

シュバリエの目が泳ぐ。彼はきっと、まだ見た目通りの歳なのだろう。人間に混じって生活する事には長けていても、危険な相手を察知する敏感さも上手く切り抜ける狡猾さも無い。

「逃げようというなら無駄だぞ、うちの犬の方がきっと君より鼻がいい。」

「命令を寄越せ主。」

「うちに連れて帰る。逃がすな、しかし手は出すな。」

命令を寄越せと言っておいてそれに反論しようとした従僕を無視して、インテグラは胸ポケットから携帯を取り出して警護を呼び出す。

「ビルか、車は?・・・そうか、今から行く。『客』を1人連れて行くからお前かコナーのどちらかは別便で戻ってくれ。」

携帯を再び胸ポケットに仕舞うと少し冷えてしまったラテをひと口飲んで、その下にお釣りが来る程度の紙幣を挟んでおいた。

「さて、行こうか。」

インテグラに微笑みかけられた青年は、形容しがたい複雑な表情をした。




 昼間の天気が嘘のように、煌々と輝く月がカーテン越しにも明るい。ロンドンの天気は変わりやすい。
枕の下に突っ込んだ手がひんやりと冷たくて気持ちが良い。それほどに体温が上昇しているのだ。
繋がったそこからする淫靡な音に居た堪れず顔を隠すように羽枕を抱き締めると、男が含み嗤った。

「掴まる物が欲しければ私にしがみ付けばいい、お嬢さん。」

「っるさい・・・」

「ふん、どちらにしてもお前の感じている顔が見えんな。」

そんな事を言われたら尚更見せたくなどない。
それなのに枕を取り上げられ、顔を隠そうとした両手を掴まれてシーツの上に貼り付けにされた。
そうして男はことさらにゆっくりと腰を前後させる。昼間の熾き火を煽るように。

「・・・っ・・・」

「いい顔だ、インテグラ。」

「みるっ・・・なっ・・・」

顔を背ければ、ねっとりと耳に舌が這わされる。
こんな状態の時は体中のどこを触られてもびりびりと電流が流されたような感じがするが、そこは特に駄目だ。

「んんっ・・・」

食いしばった口の代わりに鼻から、自分のものとは思えない甲高い声が漏れる。
耳への愛撫はダイレクトに下腹を刺激して、自分でも男と繋がったそこが蠕動するのが分かった。

「・・・も、いい加減にしろ・・・」

午前中から一日外出して、しかもそんな日に限って捕り物も1件あった。疲れているのに今夜の男はいつにも増して底意地の悪い執拗さで、猫が鼠で遊ぶような生殺しを延々とやるのだ。汽車の中で拒んだ意趣返しに違いない。

「いつになったら色っぽいねだり方のひとつも憶えるのかね。」

そんなもの、未来永劫あるものか。

「強情なお嬢さんだ。」

男が含み笑い、繋がったままのインテグラの躰をうつ伏せにひっくり返すと腰を引き寄せた。必然的に膝立ちで尻を突き上げた格好になる。

「やっ・・・」

逃げようと足掻いたが腰はがっちりと固定され、自由に動かせた手はシーツの皺を増やしただけだった。

「嫌か?どうして?これならばお前の望みどおり顔は見えんが?」

この男と来たらどうしてこうも自分が嫌がることばかり率先してやるのだろう。
背中全体に冷たい感触が触れる。肌ではない。浴室から連れてこられたインテグラは何一つ身に着けていないが、男はドレスシャツとトゥラザースを着たままだ。
背後から回された手に胸をやんわりと揉みしだかれ、繋がっている場所の花芽を撫ぜられた。もどかしい、何ならもういっそ自分で。

「獣のような格好がお気に召さないと言うなら、獣に失礼だぞお嬢さん。獣は人のように快楽の為に繋がったりなどはしない。」

耳のすぐ後ろから声が吹き込まれる。

「知っているか?快楽など無いから雌は雄に乗られるのを嫌がるが、それを無理やり抑え付けて繋がる。」

ゆっくりと、また男が腰を蠢かす。

「繋がった雄の生殖器は雌に逃げられないように中で形状を変えて事を成すまで抜けなくなる。全ては子孫を残すためだ。」

腰を打ち付けられ、思わず躰を強張らせた。

「だから獣の交わりはこのようにも深い。」

奥深くを穿たれ一瞬にして上り詰める。ようやく達す事が出来たのに敏感になった内側を、男は容赦なく擦り上げた。
胸の頂点を指の間で玩ばれ、花芽を捏ね回され、最奥を突かれる。
男の鼻先が髪を掻き分けてきて耳朶を噛まれ全てが瓦解した。

「あっ・・・んんっ・・・」

「やっと啼いたな、お嬢さん。」

悔しいのに、一度漏れ出したものは止められない。

「っ・・・糞っ・・・」

毒づいた口に胸から離れた指が突っ込まれた。舌を抑え付けられ奥まで入れられてえずきそうになる。

「口も犯されたいのか?主。私だけでは手が足らぬからあの狼を連れてくるか。」

駅で捉えた人狼を始末させなかった事を根に持っているのか。
人や家畜を襲った事は無いと言っていたし、それでも野に放すわけにはいかないから人狼なら身体能力が高いはずと団に勧誘したのがそんなの面白くなかったのか。

「お・・・前の・・・が、邪魔・・・に、なる・・・かもな」

「ほう。」

耳が冷たくなるような声にまた余計なことを言ったと思ったが、後悔なんて先に気付けないからするものだ。
それに結果的にはインテグラの思惑通りになった。

「っぐ―――――」

口に指を入れられたまま激しく抽挿されて本当に嘔吐しそうになった。打ち付けられる腰に全身が前後に揺らされる。
どうせこうならないとこの男は終わらないのだ。自分が気を失うまで。
それでいい。自分は契約と言う暴力を振るい、この男は性交と言う暴力を振るって互いを制圧する。
愛を確かめる為でも子を成す為でも無いのだから。
幾度かの到達を経て、意識に白い靄が掛かる。ようやく終われる事に、ただ安堵する。
だから気を失う瞬間に躰を抱き締められた気がしたのは、きっと自分の甘さが見せた夢に違いない。





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