◆竜に翼を得たる如し


 夕方、食卓に着いたインテグラは出された食事を見て眉を顰めた。
基本的に偏食は無い。長いこと雇っているコックの作る味も気に入っている。しかし食欲もあまり無い今、喉を通らないのが正直なところだ。

「すまないが下げてくれ。」

ほとんど残した状態の料理に罪悪感はあったが、食べれないものは食べれない。

「お嬢様、ちゃんとお食べ下さいませ。」

説教めいたウォルターの言葉に溜め息をつく。言いたいことは沢山あるが、自分を案じての事だと分かっているから言えない。

「食欲が無いんだ。」

ずっと続いている胸焼けと吐き気に加えて、安定期に入るまではと現場に出ることも徹夜で仕事をする事もウォルターに止められているので空腹感もあまり無い。
21時には執務室から追い出されて自室に戻され、24時までには就寝。それでも最初は19時撤収22時就寝だったのをインテグラがそこまで持っていったのだ。勿論、葉巻も禁止。実はこれが一番辛い。
どうやら諸悪の根源とはひと悶着あったらしいが、それはインテグラの知った事ではない。渋い顔をしていたウォルターもインテグラの体が大事と今では以前にも増して甲斐甲斐しい。
妊娠初期というのは胎児がきちんと母体に固定されていないから流産の危険性が高い。などと言われてはインテグラもウォルターの言う事を聞くしかなかった。

「だいたい、安定期っていつになれば安定期なんだ?」

「5ヶ月以降といったところでございますな。人間の胎児の場合ではございますが。」

インテグラの懐妊を知ってから随分調べたらしい執事は、インテグラの質問にさらりと答える。
5ヶ月。あと2ヶ月もこんな生活をしなければならないのかとインテグラはうんざりとした気分になった。


 ようやく日が暮れた頃合に執務室を追い出されたインテグラは、シャワーを浴びてナイトドレスに着替え、最近になって自室に運び込まれた真新しい本棚の前で、髪の毛の湿り気をタオルで拭き取りながら本を物色する。
ウォルターが自動車に乗る事にも良い顔をしないので、彼が図書館から選んできたものや購入してきたものがそこを埋めているが、さすがにインテグラの興味を惹くようなものばかりだ。
今夜の退屈を紛らわせるための本を選び出しソファに腰掛ける。テーブルの上には先ほどウォルターが置いて行ったポットとティーカップが置かれていた。紅茶はカフェインが多いと言って中身はハーブティー。もちろん妊娠中には良くないと思われるハーブを除外する徹底ぶりだ。

「何もかも禁止されるとそのストレスの方が良く無さそうだがなあ・・・」

ぼやきながらもハーブティーを口にして本を開く。葉巻を全部取り上げられてしまったのでとにかく口寂しいのだ。

「今日は何だ。」

後ろから覗き込んできた男を振り向くことなく、インテグラはカップを置いて溜め息をつく。
毎晩のように部屋をうろつく諸悪の根源が今夜もまた現れたのだ。

「中国の神話だ。」

本の頁を捲りながら答えたインテグラは、2〜3行読んでまた嘆息する。

「アーカード、安定期に入るまで駄目だと言っただろう。」

「分かっている。だから何もしていないだろう。」

「じゃあこの手は何だ!!この手は!!」

胸元を弄っていた手を抓り上げて、インテグラは初めてアーカードの方を見る。

「スキンシップだ。」

しれしれと答えたアーカードに渋面を作り、その手を叩き落とした。

「何がスキンシップだ!!お前にこんな触られ方されたらっ」

「されたら?」

にやりと笑った確信犯。
言わずもがなの男の手管を放っておけば陥落は目に見えている。

「とにかく!!私に触れるのも禁止だ!!」

「子供の父親が母親に触る事も出来ないと?」

改めて言葉にされてインテグラは頬に朱を上らせる。今さらだがそういう事なのだ。
まさか吸血鬼の子供を身篭るとは思わなかったが結果的にそうで、出来たと言う事はそういった行為を重ねてきたと言う事だ。そんな事を考えていたら恥かしさのあまり頭がくらくらしてきた。

「おい、どうした。」

ほんの少しだけ切迫した調子のアーカードの声に、インテグラは自分が頭をソファの背に預けていた事に気付く。どうやら頭がくらくらしたのは感情的な事ではなく現実的に貧血を起こしていたらしい。

「・・・貧血だ・・・」

「頭に血が上っているのかと思えば逆か。」

「・・・うまい事言うな、お前。」

くすりと、インテグラは笑う。たまにこの化け物は面白い事を言う。
背後から周って来た男が隣に座って自分にインテグラの体を傾かせた。アーカードに寄り掛かっているのは些か面映いが、悪くは無いなと思いながら体を預ける。
―――――こういうスキンシップだったら、悪く無いのに。
貧血になった事など無かったのに、妊娠すると誰もがそうなるのか、それともやはり身籠っているのがダンピールだからなのか。

「ちゃんと食べているのか。」

アーカードの言葉はインテグラを驚かせた。まさかこの男が自分の体を慮るとは。

「行動を制限されて熱量を消費しないし、悪阻とか言うもので食欲も無いんだ。」

「食べてないんだな。」

念を押されて言葉に詰まる。

「体重が減っている。」

「え?」

「それも6ポンドもだ。」

「お前、体重計まで出来るのか?」

35ポンドもある銃を片手で扱うくせに、たった6ポンドの差が分かるとでも言うのだろうか。 しかし確かに体重が減っているというのはあまり良くないかも知れない。

「・・・明日から、ちゃんと食べる。」

ようやく眩暈の収まった頭を起こしてインテグラは答える。

「今からだ。」

「お前、そんな事言ったってな・・・」

「執事が来る。」

アーカードの言葉と同時にドアをノックする音が響く。

「お嬢様。」

予言どおりの執事の声に、まあこいつだからなと納得して返事をする。

「ウォルターか、入っていいぞ。」

ワゴンを押して入ってきたウォルターはアーカードの存在を見止めて僅かに渋面を作った。

「何だ?」

「は、あまりお食事を採られていらっしゃらないので少しお持ちいたしました。」

心配顔の執事にインテグラは苦笑する。ワゴンの上にはドライフルーツの入ったマフィンが数個。食欲は無いがあまりウォルターに心配を掛けさせるのも嫌だし、何よりたった今「ちゃんと食べる」 と言ってしまったばかりだ。

「ありがとうウォルター、貰おうか。」

ウォルターがワゴンから取ろうとした皿を横からアーカードが浚う。インテグラの前に置いて「食え」 と一言。柔和なウォルターの蟀谷に青筋が浮いているのが見えるが、そこは見ていない振りをしておこう。
食べ物が喉を通るのは辛かったが何とかハーブティーで流し込む。血糖値が上がったおかげか少しだけ気分が良くなった。

「少々失礼いたします。」

唐突に部屋からウォルターが出て行く。イヤホンを着けているのが見えたから何か連絡が入ったのだろう。暫くしてウォルターは主人への報告へ戻ってきた。

「お嬢様、どうやらフリークスが現れた模様で。」

「そうか。」

わざわざ戻ってきてインテグラの耳に入れたという事は、そういう事なのだろう。

「見敵必殺だ、従僕。」

「了解した、我が主。」

貴族的な優雅さで主人の命に礼を返す男の、その禍々しさ。
この男の子供を身籠っているのだと、インテグラはその背筋に冷たいものが奔るのを感じた。


 数時間ほどしてまた訪れた・・・いや帰って来たと言うべきか・・・男は、予想したとおり血臭を纏わり付かせていた。それが平気な自分にインテグラは些か複雑な気分になる。
ここ暫く匂いというものに敏感になってしまって、以前は平気だった香りにも過剰に反応して気分が悪くなる。それなのに血の香りが平気だなんて人としてどうだろう。それどころか、少し、気分が良い。

「任務完了だ、我が主。」

お決まりの台詞を言って薄く笑むアーカードに、なおざりに「ご苦労」と返事を返して読み掛けの本に目を落とす。

「面白いか?」

「ん・・・まあな。」

男をちらりと見てインテグラは話し始めた。機嫌が良いらしいと判断してアーカードはインテグラの隣に腰掛ける。

「蛇や竜ってのはこっちでは悪魔の化身だけど、東洋では逆に神として崇められてる。そもそも古代中国全土を支配した大帝国の皇帝たちは竜の化身と思われていたようだし、中国神話では東方を守る神獣が青竜だ。あと真ん中を統べるのも元々は黄竜だったようだがこれが麒麟に変化していてな。場所が違うとこんなにも認識って変わるもんなんだな。」

「蛇が悪者になっているのは主にキリスト教圏、またはカトリックやプロテスタントの国々だ。 旧約聖書でイブに蛇が知恵を授けた記述のせいだろう。」

「成る程。そういえばキリスト教が普及する前の古代エジプトあたりの装身具にも蛇のモチーフがよく使われているから、やはり悪者というよりは善いイメージがあるんだろうな。」

そこまで言ってインテグラはふと思う。
―――――聖書に明るい反キリストの化け物か。
ずっと遡れば彼も東方正教会の敬虔な信者だったのだろうから、聖書に明るくても不思議は無いのだが、それこそがこの化け物の不死身たる所以のような気がしてならない。
インテグラは本に描かれている竜の挿絵を指先でなぞる。ずんぐりとした恐竜のような体格をしたヨーロッパのドラゴンとは違って、東洋の竜はとても優美だ。

「12時だ、もう寝ろお嬢さん。」

「え?」

言われて時計を見ると、きっかり0時。
執事と密約でも交わしたのかと訝しげに見るインテグラに、アーカードは剣呑な笑みを浮かべる。

「起きているなら体調は万全と見なすぞ。」

という事は、つまり、そういう事か。

「寝る。」

そそくさと本を持って立ち上がろうとするインテグラの手から本が取り上げられる。

「片付けておくから行け。」

本を持ったアーカードが本棚の方へ行くのを見ながら、インテグラは何だか落ち着かない気持ちで寝室へと向かうのだった。



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