◆晴天、霹靂を鳴らす


 積み上げられた書類の最後の一枚にサインをして、アクアスキュータムの万年筆を置いたインテグラはため息を吐いた。肩の強張りを感じて首をかるく回す。
ここしばらく枚挙に暇の無いほど出没する化け物どもを片付けるのは、もちろん実働部隊や彼女の下僕であるゴミ処理係たちなのだが、バックボーンを守る指揮官とて安穏と命令だけを下しているわけではないのである。
ひとたびあの厄介な下僕に行動させると、実働部隊だけで事が済んだ場合の倍以上は他機関との折衝に時間を割かれる事になるのだ。その分インテグラの睡眠時間は減っているというのに、さらに安眠の邪魔をしてくれるのだ、あの男は。
一服しようと引き出しを開けてコルクの箱を開けたが、中にお目当ての物 は入っていなかった。存外に気の利く執事にしては珍しい手落ちだ。いや、ひょっとしたら故意にだろうか。
部屋の隅のコートハンガーに掛けたジャケットの内ポケットに入っているはずのシガーケースを取ろうと、座ったままの椅子を回転させて立ち上がった瞬間、視界が暗転した。
平衡感覚さえもあやしく、うまく回らない思考の中で意識を手先に集中させ、何とか黒檀のデスクに手をついて転倒を免れる。そのままじっと視界に光が戻ってくるのを待つ事、数十秒・・・実際には数秒だったのかもしれない。
目の前にデスクを掴むように広げられた自分の手が像を結ぶ。先ほど立った椅子に座りなおし、今度は耳鳴りが過ぎ去るのを待つ。脳に酸素を送ろうと心臓が早鐘を打っていた。

「貧血とは・・・我ながら情けないな。」

疲労の所為などとは言い訳にはならない。大事な時に指揮官が倒れていては何もならないのだ。最近はデスクワークに追われ、移動といえば車かヘリ。体力が落ちているのだとインテグラは自戒する。
ふと思いついてインテグラはデスクの上の受話器を取り、執事にコールした。

「ウォルター、射撃場に行くから用があればそっちに頼む。」

「承知いたしました、お嬢様。」

ゆっくりと立ち上がり、どうも無いことを確認してハンガーへと歩み寄る。ジャケットと一緒に掛けてあったホルスターを着けてジャケットを羽織り、部屋を後にした。葉巻のことはすっかり忘れ去っていた。


 丁度具合の良いことに射撃場には誰も居なかった。機関員の練習中ならコールした際にウォルターが何かしら言ったはずだろうから当然と言えば当然かもしれない。
弾薬庫の棚から練習用の弾倉をいくつか取り出し、コンピュータ端末で練習用のソフトを立ち上げる。ブースに入るとインテグラはホルスターから銃を取り出した。しばらく前にPPK/Sから持ち替えたベレッタは、まだ少し手に馴染んでいない感じだ。
実包を取り出して練習用の弾倉と取り替えてから銃を構え、コンピュータの指示で的が立ち上がるのを待つ。呼吸二つ分くらいを置いて現れた的に向かって引き金を引いた。
ランダムに現れる的に続けざまに弾丸を放ちながら、インテグラの眉間がだんだんと寄せられていく。一連のソフトを何とか終了させたものの、結果は惨憺たる有様。
腕が落ちた。というわけでは無い。
まったく集中できなかった頭を乱暴にがしがしと掻いてインテグラは又ため息を吐いた。貧血に、この集中力の無さ。原因は疲労ではないのか。
指を髪に埋めたまま、頭の中で数を数えていたインテグラは、貧血の時よりもさらに顔色を悪くしながら呆然と立ち尽くす。
―――――そんな、まさか・・・
何度も頭の中で反芻し、絶望的ですらある結果をどうにか変えようとするが、それは無駄な努力だった。
あるべきものが無く、ありえない事が起こってしまった事に銃をぶら下げたままインテグラは途方にくれる。執事に声を掛けるような余裕も無く、執務室ではなくふらふらと自室に戻る。椅子には座ってみたものの、落ち着けずに部屋の中を右往左往しながら、回らぬ頭で考え事を続ける。
生理が途絶えて久しい、体調も芳しくない。いくら考えても導き出される答えは唯ひとつ。頭を抱えるより他無い。
―――――どうする。
いずれは跡継ぎを作らなければならないとは、かねてからずっと念頭にあった事だった。しかし、それは相応の相手を探しての事だ。庶子が悪いというわけではない。現にインテグラは母の顔を知らない。
身分云々以前に吸血鬼を狩る機関の長が、その使命の為に吸血鬼を使役することは許されても、人ならざる者がその地位に就くことは許されるだろうか。
『人』だからこの世での生存を賭けて『化け物』と戦うのであって、『化け物』が『化け物』を殺すのは、それはただの覇権争いになりはしないだろうか。否、この世界の覇権を争うという点では『人』対『化け物』でも『化け物』 対『化け物』でも大差は無いのかもしれない。しかし王立国境騎士団はその名の通り、女王陛下に仕える機関だ。やはり化け物がその長であると言うのは具合が悪い。況して現在その立場である自分が排除すべき化け物を産み落とすなど、許されようはずが無い。
父親があの化け物でない可能性は、残念ながら全く無い。
―――――では、処理するのか?出来るのか?
物理的にも。心情的にも。
吸血鬼が性交によって同属を増やすなどという事例は、インテグラが読破した膨大なヘルシング家の蔵書の中にも全く無い。プロテスタントとしても堕胎は大罪だが、そもそも死人である吸血鬼の子の命を奪うことが出来るのか?人の血を半分受け継いでいれば不死ではないのかもしれないが。
いや逆説的に考えてみよう。死者と生者との間に出来た、在り得ないものが無事に誕生できるとも考えにくい。
しかし前例が無いゆえに答えが出るはずも無く。

「っ!?」

頭の中で堂々巡りを繰り返しながら部屋の中をぐるぐると歩いていたインテグラは、そこにあるはずの無い壁にぶつかって額を押さえた。

「どうした、主。」

頭の上でかすかにほくそ笑む気配のする低い声。
いやいや見上げると、真っ赤な壁のてっぺんには唇の端をわずかに吊り上げた蒼白の美貌。インテグラの悩みの張本人がそこに立っていた。
考えがまとまる前に問題の根源が現れた為の動揺をインテグラは億尾にも出したつもりは無かったが、彼女が幼少の頃からこの屋敷に居た執事の次くらいには時間を共にしている下僕は目ざとく、その心の動きをさして変わったとも思えぬ顔色の変化から察したようだった。

「何か問題でも?」

大有りである。
インテグラの心に常ならぬ意地の悪い気持ちが生まれたのは、その言葉がいつものように揶揄する笑みを伴っていたからだ。あるいはそれが無ければ言い出せなかったかもしれない。
男は多分インテグラが下僕の自分勝手な行動(彼は命令を遵守しているつもりなのだが)による損害の愚痴でも言い始めるのだろうと思っているのだろう。インテグラに何か含むところがあるとは気付いてはいても、余裕どころか意に介さないといった風情である。インテグラの発言は格好の意趣返しになるはずだ。
頭上にある男の顔を、顎を反らす事で下目使いに見下ろしながらインテグラは意識して皮肉な笑みを浮かべて言った。

「子供が出来た。」

爆弾発言にも男の反応はいやに薄かった。それでも男には珍しく『怪訝そうな』 とも取れる表情をしていたので、インテグラは追い討ちをかける。

「もちろん私にだ。」

その時、インテグラが感じたものをどう形容したらよいだろうか。
冷や水を浴びせられたなどという生易しいものではない、極寒のシベリアに裸で放り出されたような、体の凍りつくような感覚。感覚だけではなく実際にインテグラは男から吹き付ける冷気で指先が冷えていくのを感じた。
―――――怒っている?
そしてふと思い至る。吸血鬼に同属への愛情などあるはずがない。彼の喜悦する闘争の相手か、もしくは隷属する下位の眷属ならいざしらず、固立した眷族など目障りな存在以外の何者でも無いのではないか?彼に知らせたのは実はとんでもない誤りだったのではないだろうか。
激しく後悔しかけたインテグラの耳に、冷ややかな男の声が届く。

「おめでとうヘルシング卿。それで、お相手はどこの伯爵か公爵かな?」

「・・・・・は?」

言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
確かに、常日頃からインテグラは、いずれはそうするのだと言っていた。言ってはいたが。
男の馬鹿馬鹿しい勘違いに、ふつふつと怒りが込み上げる。自分の貞操が疑われた事に怒りを覚えているのだとは本人も気付いては居ない。

「それがお笑い種でな、領土も領民も自らの生さえも疾うの昔に失ったくせに、まだこの世をウロついている伯爵サマだ。」

一気に吐き捨てるように言ってやった。
男にとってここ100年やそこらは『想定外の出来事』などはきっと無かっただろう。長々と一緒に居るからこそ分かる、彼の呆け具合を目にしてインテグラは僅かならずとも溜飲の下がる思いがした。
ざまあみろ。というところだ。
さて問題は相手の反応なわけだが、男がどう思おうと、もうインテグラの腹は決まっていた。

「で?」

間抜けとも冷静とも取れる声を発した男の顔は、
―――――困惑している?まさか。
笑みの消えた顔には複雑な表情を浮かんでいる。ように見えたのはインテグラの思い込みだろうか。

「産む・・・つもりだが、駄目か?」

その瞬間に起こったことは彼女にとってはまさに青天の霹靂というくらいに意外な出来事だった。覆いかぶさるように迫ってきた赤い影をよける事も忘れていた。
男の重さを感じて初めて、抱きしめられている事に気付く。抱え込まれた躰の居心地が悪くてよじろうとしたが、びくともしないので諦めた。

「人として生きている時に叶わなかった事が死して叶うとはな・・・」

呟くように言われた言葉が、男の両腕に耳がふさがれている為にくぐもって聞こえる。ベッドで抱かれている時よりも、何やらずっと恥ずかしいのはどうした事だろう。

「男の子か?女の子か?」

「そっ・・・そんなのまだ分かるわけ無いだろう。」

「そうか、まあお前に似ていればどっちでも良い。それよりも体を厭え。 ウォルターには?」

「いや・・・」

僅かに首を横に振ったインテグラから、突然体を離した男はつかつかと扉へと向かった。

「アーカード!?」

どこへ?と問う前に男が答える。

「ウォルターのところへ。お前を休ませるには奴の協力が必要不可欠だろう。」

「ちょっ・・・ちょっと待て!!まだ心の準備がっ!!」

これは飛んだことになったぞと思っても、後の祭りというものだろう。
その後、必死のていでアーカードを止めたのだが、もちろんウォルターに知れるのは時間の問題だ。
邸内に少なくはない血の雨が降ったが、そこは割愛するとしよう。




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