◆飢餓


 その躰に纏うものは月光色の金糸のみ。
ベッドにうつ伏せに転がり、投げやりに四肢を投げ出したインテグラの上に細い光の線が落ちる。
それは弱くか細い光だったが、気配に目を向けたインテグラの瞳には刺すように痛かった。
随分と長いこと闇の中に居たせいだ。
ドアの隙間から入る光から目を背けるように、重い体を返してシーツの上に突っ伏す。

「・・・インテグラ様?」

おずおずと掛けられた声に、もう一度、億劫そうに顔だけを動かして目を向ける。
ようやく慣れてきた瞳に蜂蜜色の髪をした娘が映った。

「・・・セラスか・・・」

「大丈夫ですか?」

セラスの目にもインテグラが大丈夫そうにはとても見えなかったが、他に掛ける言葉が見付からなかった。

「・・・大丈夫だ・・・」

声は酷く擦れていて、答えた本人もそれが相手に通じる言葉だとは思っていない。
だがらそれを誇示しようと躰を起こしかけるインテグラを、セラスは慌てて支えに走る。もとから薄い躰がさらに重みを無くしているのに思わず鼻の奥がツンとする。
死も病も無い夜の住人となったはずの彼女をこれほど焦燥させるまで責め苛んでいるのが、当の自分の主人でなければ助けてやる事も可能なのだが。
せめて糧となる血液を摂取してくれれば良いのに、セラス自身にも逡巡のあった事を強く勧める事も出来ない。

「そうだインテグラ様、外に出られてみませんか?」

抱き上げて行ったとしてもセラスにとって羽毛を持ち歩くも同然だろう。

「外に?」

「はい、綺麗な月夜ですよ。」

「・・・・・」

インテグラは躊躇しているようだった。
無理も無い、彼女は死んでこの部屋に連れて来られてからというもの、一度もこの部屋から外に出ていないのだ。

「服を探してきました。」

セラスの差し出したドレスに、手伝ってもらいながらやっと袖を通す。絹の質素だが上品なドレスは、綺麗にはしてあるが随分と古いものに見えた。

「これは?」

「他の部屋にあったのを勝手に持ってきちゃいました。」

苦笑したセラスにインテグラは薄く笑う。確かに裸で歩き回るわけにもいかないので深くは考えかった。
セラスに支えられながら部屋を出て、そこが地下階でないことを知る。地下階どころかインテグラの全く知らない建物だった。

「ここは・・・」

「ルーマニアです。」

意を決したように言葉を搾り出したセラスの言葉に、インテグラは絶句する。まさかそんな所にまで連れて来られていようとは。

「行きましょう。歩けますか?」

建物は随分古い廃屋のようだった。ところどころガラスの欠けた窓から、煌々と月の光が差し込んでいる。枠に残ったガラスを我知らずに見たインテグラは、少なからず衝撃を受ける。 分かっていた事とはいえ二人の行く廊下の窓ガラスに人影が映ることは無い。
暫く行くとまだ体裁を整えているオーク材の頑丈そうな扉にたどり着いた。インテグラを半分抱えたままセラスは軽々とその重そうな扉を開き、外に出る。
鬱蒼と木々が生い茂る庭は、昔はきっとさぞ素晴らしい庭だったのだろう姿が想像できるが今は見る影も無い。
月光をその身に受けたインテグラは、自分が『夜歩く者』になった事を否応なしに感じていた。僅かにではあるが、その躰に力が充ちるのを感じる。月夜に化け物がよく出るわけだと妙に納得しながら満ちた月を見上げた。

「確かこっちに・・・」

言いながらセラスがインテグラを連れて行った先には、白い石で出来たガーデンテーブルと椅子が並んでいた。石の冷たさを意識して一瞬躰を強張らせたインテグラは、ゆっくりと椅子に腰掛けて苦笑する。

「どうしました?」

「いや。」

体温が無いのだから石の冷たさなど感じるはずが無い。まだ人である時の感覚が抜け切っていないようだ。

「居ないのか?」

誰が、とは問わない。

「はい。」

誰が、とも言わない。

「そうか。」

安堵したような落胆したような、どちらともつかない表情で再び月を見上げたインテグラの顔を、セラスは食い入るように見詰める。
今のインテグラは生来の容姿の丹精さに、儚さと妖艶さが加わって凄絶な美しさだった。どんな術も手管も必要とせずに、男女の別なく生き血を提供しようという者はいくらでも居るだろう。
だが当の本人にその気が無いのだ。

「セラス。」

「はっ・・・はい!!」

視線をセラスへ移したインテグラに呼ばれ、見詰めていたのを誤魔化すように慌てて返事をする。その相手に今度は見詰められ、セラスは動かないはずの心臓が高鳴る錯覚を覚えた。まさかその顔が自分の顔に近付いてこようとは。
インテグラの顔が視界いっぱいに広がって、その唇が自分の唇に触れた瞬間に思わず目を閉じた。さらり、とインテグラの髪が滑る音がする。重なった唇から出てきた舌がセラスの唇を割って入ってきた。
甘い。と思った。自分の舌に絡み付いてきたものを夢中で貪る。主の事は頭に無かった。
濃厚な口付けに陶然となったセラスの耳に、インテグラの声がする。

「まだまだ、だなセラス。」

苦笑したインテグラの顔を見た気がしたが、目を開けたセラスの前には誰も居なかった。
西に沈みかけた満月の下、インテグラは、忽然と姿を消していた。
吸血鬼なら、常人では考えられない速度で移動することなど容易い。それは自分でもよく分かっていたが、憔悴しきったインテグラが自分を出し抜いて逃げ出すなど思いも寄らなかった。
刑の執行人を待つ罪人の面持ちで空を見上げていたセラスは、空を覆い始めた暗雲を目に手を組んで硬く握り合わせる。生きていた時によくそうしたように、何かに祈るように。
やがて暗雲に見えたそれは重く垂れ込め、夥しい数の翼を持ったものの群れだと言うことが分かる。それはセラスの居る廃墟の庭に下りてきたかと思うと、俄かに一点に集まり人の形をとり始めた。それが完全にひとつになる前にセラスは叫ぶ。

「申し訳ありません!!マスター!!」

半分泣きそうな顔で言ったセラスの前に、紅い男は姿を現した。たった今出来上がったばかりの唇から下僕に対して短い言葉を発す。

「どうした。」

「インテグラ様が・・・」

みなまで言わせず、男は廃屋へと入っていく。それを見送ったセラスは、ふと耳を欹てた。

「何?」

何かの音が近付いてくる。音の方向、遠くに車のものと思われる灯りが見えた。 不審げに眺めていると廃屋から出てきた男が呟く。

「私の荷物だ。無駄になったがな。」

「荷物・・・ですか?」

「私は行く。荷物を中へ運んでおけ。」

「行くって、何処にですか!?」

「ロンドンだ、あれの行く場所など他にあるまい。」

「ロンドンって、インテグラ様がですか!?どうやって!?」

あんなに衰弱しきっている上に金銭も身分証明書も何も持たずに、どうやって女一人がそんな遠い場所に行けると言うのだろう。

「あれは元々ただの女ではない。たとえ吸血鬼として半人前でも、魔となった今は魔導を行使する事も容易いだろう。」

魔法でも使ってロンドンに言ったのだと言わんばかりの主人に、自分も非現実的存在でありながらセラスには実感が湧かない。そうこうしている内に車が敷地の中に入ってくる。大型のトラックだった。主人が操っているのだろう、運転席から降りてきた虚ろな目の男は、トラックの荷台から大きな木箱を幾つも降ろし始める。

「な、何ですか?これ。」

「土だ、中に運んでおけ。」

簡素な言葉で命令を繰り返し、男はまた黒い無数のものへと変化する。
―――――土って、まさか・・・
箱を降ろす男とセラスを置き去りに、アーカードはまた夜の空へと散った。



 その夜、アイランズは人の気配で目を覚ました。
厳重なセキュリティを抜けて来たであろう侵入者に対し、視線よりも先に枕元に潜ませておいた銃を向ける。銃口の次に向けた視線の先にあったものを見て、彼は常ならば冷徹で冷静なその表情を曇らせた。
銃を下ろしベッドの上で上半身を起き上がらせた彼は、薄闇の中に浮かび上がる人影に向かって、暫く前に行方知れずになっていた亡き親友の忘れ形見の名を呼ぶ。

「インテグラ。」

「ご無沙汰しております、アイランズ卿。」

言った娘の声音は確かに聞き馴染んだもののはずだったが、アイランズの背筋を凍らせるには充分のものだった。闇の中で赤く光る娘の瞳に、彼は全てを悟る。

「そうか、やはりそうなったか。」

娘の所在が掴めない事を知ったアイランズは彼女を捜す手を尽くしたが、遺体さえも見つける事が出来なかった。彼はそれを敵の所作だとは思ってはいなかった。
あの男の娘に対する尋常ならざる執着に気付いていたからだ。
無論、あの男がむざと娘を殺させたわけでは無いだろう。契約がある。しかし偶発的に娘がその命を落とそうとした時にあの男がどうするか。アイランズには予想がついていた。

「逃げてきたか、あの男から。」

「いいえ・・・逃げるつもりならばロンドンには戻りません。」

インテグラがロンドンに戻ることは誰にでも容易に想像できる事だ。それに逃げられるはずもないし逃げる気も無い。

「ただ、どうなっているのかと・・・」

時間の感覚も無くなっているので、どれほどの間あそこに居たのかも分からない。 本当に、ただ自分が居なくなった後がどうなったのかと言う心配だけで来てしまったというのが正直なところだ。

「お前が姿を消した直後にはある程度の混乱があったが、今は落ち着いている。今のところ実働部隊長が局長代行を兼任しているのが現状だ。」

「ああ、彼は無事だったんですね。・・・ウォルターは?」

「あの執事が生きていればお前をこんな目に遭わせてはおらんだろう。」

死神でさえも寄る年波には適わなかったと言う事なのか、それともインテグラが足を引っ張ってしまったのか。明らかに指揮官である自分の判断ミスとしか言いようが無い。今さら悔やんでも遅いが。

「このまま彼に局長代行を任せたままにはしておけん、代行は代行だ。正当な後継者がいる。」

「・・・はい。」

「ヘルシングの血は、遺さねばならん。冷凍保存されているお前の卵子を使うが、良いな?」

あの男が出奔した今、機関のトップがヘルシングである事に何の意味があるのかと思ったが、是と応えるしかない。

「相手の選定はどうする。」

『相手』という言葉にインテグラは禁じえない失笑を漏らす。見も知らぬ、ただ遺伝子を足して割るだけの関係。相手と言うのは些か滑稽な表現だ。

「お任せいたします。」

機関が健在なことを知れればそれでいい。後はもう自分の範疇ではない。そんな資格もない。
一礼して踵を返そうとするインテグラをアイランズの声が引き止める。

「何処へ行く。」

何処へと問われても、行き場所があるわけではない。ただここに居るわけにもいかないだろう。
そんなインテグラの逡巡を読み取ったのか、アイランズは言葉を続ける。

「機関へ戻れ。動くことが出来るのなら義務を全うしろ。」

「しかし・・・」

「お前とお前の主が英国に仇を成すようならば容赦なく叩き潰す。戻れ、連絡は入れておく。」

そう言ってベッドから立ち上がり、部屋を出て行くアイランズをインテグラは呆然と見送る。帰ろうなどとは全く考えていなかった。いや、ひょっとしたら心の奥底では願っていたのかもしれない。その証拠に、この胸に溢れているものはきっと悦びと言うやつだ。
戻れるのならば、あの場所に。
その悦びこそ吸血鬼と言う化け物の回帰本能だとは、インテグラはこの時まだ気付いていなかった。



 温かく迎えてくれた機関員や使用人たちも、さすがにインテグラの瞳を見て顔が引き攣っていた。
もとの部屋を勧められるのを頑として断り、地下の一室にベッドを運んでもらったが、棺を作ってもらったほうが良いのかも知れない。
屋敷の敷地の土を踏んだ途端に理解した土地への妄執。吸血鬼が生まれた地の土を欲する訳。知識として持っている事と実感として感じる事はあまりにも隔たりがある。
庭に出て、インテグラは無造作にごろりと地面に寝転がった。芝生越しにではあるが土の感触が心地良い。うっとりと目を閉じて、口元を綻ばせていた表情が次の瞬間に強張る。
飛び起きて、呟いた。

「来る。」

畏怖と、苦渋と、それよりも多く胸を占めるこの感情の名を、何と呼ぶのか。
動かなくなった心臓を鷲掴みにされるような、涙が出そうになるこの想いを。
―――――これが従属させられると言う事なのだろうか。
こんな感情は知らない。喜びと怒りと哀しみの他にいったい何があるというのだろう。例えあったとしても、自分にはそれまでこんなもの必要なかった。
夜空から黒い群れが無数の羽音をさせながら降りてくる。インテグラはただ立ち尽くし、己の主人が現れるのを待った。紅い装束に包まれた白い相貌を目にすると、いっそう胸の痛みが強くなる。
男はその姿が完全に現れても暫く無言だった。沈黙が二人の間に落ちる。居心地の悪い思いはあるものの、何を言えば良いのか分からない。そもそも発言することが許されているのかすらも。
ざわり、と風が吹いたのと同時に低い声が沈黙を破った。

「逃げないのか?」

嘲笑をはらんだように聞こえる言葉にインテグラは眉を寄せる。

「どうして誰も彼も「逃げた」などと人聞きの悪い。お前の留守中に勝手をしたのは悪いと思っている。だが言っても来させてはくれなかっただろう? それに・・・」

「それに?」

「主が呼べば何処へだろうとどんな術を使っても行かなければならないのが従属だ。従属である私が主から逃げられるわけが無い。」

「自覚はあるわけだ。・・・脱げ。」

「え?」

「聞こえなかったか?」

「ここでか?」

「ここでだ。」

「命令か?」

「命令だ。」

インテグラは戻ってきたことを激しく後悔した。こんな場所で辱められる事も悔しければ、それを予想だにしなかった自分にも腹が立つ。
身に着けているものといえばセラスが持ってきてくれたドレス一枚。そんな格好でアイランズや他の者たちと会っていたのだと気付いて今さら恥ずかしい。
仕方なく、着る時はセラスが上げてくれた背中のジッパーを自分で下げる。ドレスが微かな音と共に地面に落ちた瞬間、あっという間も無く地面に貼り付けにされた。飢えた肉食獣が哀れな草食獣を屠るような性急さで、まだ何の準備も出来ていないそこを穿たれ、インテグラは悲鳴を上げることも出来ずに体を強張らせる。
勝手な行動への罰だとでもいうのだろうか。
それならばいっその事、犯してから血を吸ってくれれば良かったのに。自意識など持たない屍食鬼ならばこんな苦しい想いをせずとも良かったのだ。そうすればインテグラも、怒りも羞恥も屈辱感も無く、ただ従順に抱かれていられたはずだ。それで何が不都合なのか。なぜ同属になどしてくれたのだ。
そんな恨みがましいことを考えていたインテグラの肩にアーカードが牙を立てる。その感触にぞくりと悪寒に似たものが背筋を駆け巡った。ぶつりと肌が裂ける音が耳に響く。溢れ出る血の流れを感じた場所に舌を這わされてインテグラは切なげに鳴いた。繋がった場所からじわりと快楽が押し寄せてくる。

「もう濡れてきた。これでは罰にならん。」

耳元で揶揄されてインテグラは居た堪れなくなる。
快楽を追うのが魔物の本性だと言ったのは他ならぬアーカードだ。その上に夜毎散々苛まれ、慣らされた躰が反応するのは当然の事ではないか。
恥辱に唇を噛み締めるインテグラの顔をアーカードは満足げに見下し、何を思ったかインテグラの秘裂から杭を抜き去る。内側を擦り、入り口を刺激して出て行ったものに、インテグラは息を詰める。
無論これで終わりだとはインテグラも思っていなかったが、アーカードの次の行動を予測できていた訳でもない。 乱暴に体を引っ繰り返されて後ろから突然貫かれた事に酷く落胆する。この行為に、欲望を吐き出す以外での意図は何も無いのだと思い知らされる。それでも今度は痛みも無くすんなりと入ってきたそれに最奥を突かれ、獣のような格好で犯され、その快感にだんだんと度を失っていく。

「あっ・・・うっ・・・んんっ・・・」

甘やかな声を漏らし始めたインテグラの、もう乾きはじめた肩の傷に舌を這わせながら、アーカードは幾度貪っても満たされない飢えを満たそうと腰を揺する。
呑んだ血から伝わる女の怨讐は、すでに動かなくなって久しい男の心臓をも凍りつかせるようだった。




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