◆交響曲第3番―symphonyNo3―


 「お会いします。」

インテグラの返事に、珍しくアイランズが目を瞠らせた。
ローテーブルの上に広げていた書類を纏める手を止め、怪訝そうな顔でインテグラを見据えたまま「本当か」と聞き返してくる。それが酷く可笑しくて思わずインテグラは苦笑した。

「会えとおっしゃったのはアイランズ卿ではありませんか。」

断る言い訳も尽き果てた。一度会っておけば暫くはやいのやいのと言われないだろうと、そんな軽い気持ちだった。

「そうか、ではこちらで膳立てするが良いか。」

「はい、お願いします。」

アイランズがいったいどういう基準で、曰く付きのヘルシングの娘の相手を選んでいるのか興味もあった。

「では、また連絡する。洒落た服のひとつも持っておるのだろうな?」

立ち上がり、帰りかけて言ったアイランズにインテグラは苦笑を深める。

「もし私が是とすればヘルシング家の婿になる男ですよ?そんな詰まらない相手を選んでいらっしゃるのですか?」

「いや、まあ良い。」

何か言いたそうに、それでもアイランズはそう言って帰っていった。
残された書類と写真をテーブルの上から手に取る。
―――――ダグラス・マーレイ、SASの所属か。
栗毛と金髪の間くらいの髪色、灰色の瞳がこちらに笑いかけている。写真の中の温和そうな男は、とても特殊部隊の人間には見えなかった。



 グリニッジ天文台のあるグリニッジ公園はロンドンの中心市街地から南東へ直線距離にして6kmほどの場所にある。
ブラックヒースアベニュー沿いのカフェの前で車から降りたインテグラは腕の時計を見た。約束の時間にまだ30分もある。
一瞬、強い風が吹いて巻き上げられそうになったスカートを慌てて押さえた。いつもの格好で来ようとしてウォルターに断固反対されたので、渋々イザベラに見立ててもらったツーピースだ。穿き慣れないスカートは細かいプリーツが沢山あって、ちょっとした風でも簡単に裾が開いてしまうので全く落ち着かない。急いで目前のこじんまりとしたカフェに入ると人はまばらで、当然待つものだろうと思っていた人物の後姿をショーケースの前に見付けた。よくある髪色だから人違いという可能性もあるが、軍服姿であった事が確信をもたらした。

「ダグラス・マーレイ?」

後ろから声を掛けると、ショーケースの前で菓子を物色していた様子の彼は電流が走ったかのようにぴしりと直立し、バッキンガム宮殿の近衛兵がやるように手も足も曲げずにやる回れ右を高速でやってのけた。

「サー!イエッサー!ダグラス・マーレイであります。」

蟀谷に真っ直ぐ伸ばした手をあてて敬礼した彼は、ついやってしまったという表情でその手のやり場に困った様子だった。さっきまで彼のオーダーを聞いていた店員が、何事かと彼とインテグラを代わる代わる見るので思わず苦笑した。

「初めまして、インテグラル・ヘルシングだ。手は下ろしてもらって良いかな。」

そう言って右手を差し出すと、彼も蟀谷の横にあった手を下ろして差し出してきたので軽く握る。

「は!はい、初めましてダグラス・マーレイです。」

噴き出すのは我慢した。

「うん、それは今聞いた。」

「ですね。」

言ってダグラスは空いてる方の手で恥ずかしそうに頭を掻く。

「お茶を買ってきます。外が良いですか?それとも2階で?あ、紅茶でいいですか?」

はっとしたように矢継ぎ早に質問してくるダグラスに、紅茶が良い事と2階の席が望ましいことを伝えた。紅茶の代金は、きっとここはご厚意に甘えておいた方がいいのだろう。
にこやかというよりは笑いを堪えているのだろう店員から紅茶とコーヒー、数点の菓子をのせたトレイを受け取ったダグラスと階段を上がって2階の席に着く。天気が良いせいか外の席には数人が居たが、こちらには誰も居ないようだ。
さて、何から話せば良いものか。

「冷めない内にどうぞ。」

ダグラスに奨められ、紅茶をひと口飲んでからヴィクトリアスポンジケーキにフォークを入れる。うん、悪くない。

「白状しますと、なぜ私に白羽の矢が立ったのか謎です。家柄も良くないしSASでもこれと言った功績を持っているわけではありませんから。」

だからと言って卑下している様子でも無いダグラスの表情は、素直で真面目な性格が見て取れた。

「私の事は、アイランズ卿から?」

「はい、だいたいの所は伺いました。」

家柄云々よりもインテグラが特殊な人間だという事は理解しているようだ。

「何故、引き受けたんだ?」

どう考えても自分の方こそ花嫁としては不適格であろう。

「こう言っては失礼ですが、純粋に興味・・・ですね。」

成る程、正直者だ。

「我々SASは、いい仕事をすればそれなりに評価されるし、助けた人たちには感謝され、敬意を持って接してもらえます。でもあなた方は違う。」

ちらりと周りを見たのはひと目を気にしてくれたのだろう。

「誰にも知られず、誰にも評価されず、それでも黙々とこの国を影から護っている。そんな組織を率いる女性がどんな方か興味が湧いたんですよ。」

ダグラスの感想はインテグラにとってとても意外だった。誰かに評価されようなどと考えたことも無かった。いや、考えてみればそうでもないかもしれない。

「他人はどうか知らんが、部下の評価は気になるな。」

「部下、ですか?」

「私が最前線で危険な目にあっている訳では無く、戦ってくれているのは部下たちだ。貴方の言うとおり誰にも評価はされないし命がけの仕事だから、私が彼らにとって指揮官に値する人間なのかという事に関しては気になるな。」

なぜ自分は初対面の人間にこんな事を話しているのだろう。初対面だからだろうか。

「仲間を大切に思っていらっしゃるのですね。」

その表現はとてもしっくりきた。そうだ、彼らは共に戦う仲間だ。

「ああ、あとアイランズ卿の評価も気になるな。何かしでかすとあの人に説教されはしないかと。」

ぷっとダグラスが吹き出した。冗談だと分かってくれたらしい。
思えばヘルシングを継いでからというもの、威圧もせずに異性と話した事などあっただろうか。こんな風に自然に会話が出来ることを不思議に思う。アイランズが選んだと言う事はそれなりに裏も取ってあるだろう。彼なら悪くないかもしれない。
もともと異性を選り好みする事に興味も無い。彼も色恋でここに来ているのでは無いと充分承知している筈だ。悪くないと言った程度でも家族になればきっと愛着も沸く。

「貴方のご両親は他界されたとの事だが、他にご家族は?」

アイランズのくれた書類に両親の事は書いてあったが他の親族の事は書いていなかった。気の早い話だが婚姻を前提に会っている訳だからリサーチはしておくべきだろう。出来れば面倒は避けたい。

「貴女の事を興味本位に聞いたのに、私が上っ面の情報をしゃべるのはフェアじゃありませんね。」

そう言ってダグラスは肩を竦めると「不快になったら言ってください」と前置きした上で話をし始めた。

「戸籍上の両親は、本当は私の祖父母にあたります。私は彼らの娘と、彼女を乱暴した見知らぬ男との間に出来た子供なんです。」

封印してきたのであろう自分の生い立ちを、彼は淡々と語った。
元々ウェールズの片田舎に住んでいた家族は、流れ者に娘を傷物にされた上に、被害者であるにも関わらず長年住み慣れた土地に居辛くなって住居を移したのだそうな。娘が身篭っている事に気付いた時にはすでに手遅れで、ダグラスを産んだ母親は心を壊して施設に入った。それで彼女の両親が彼を養子にしたのだと言う。

「だからウェールズにはひょっとしたら親族も居るのかもしれませんが、私は全く知りません。」

本人が包み隠さず話してくれたのだから、聞いてすまなかったと言うのは返って失礼だろう。
それにしても、まさかこれがアイランズ卿の選抜基準なのだろうか。同情心でインテグラが絆されるだろうなどと甘っちょろい考えをするような人ではない筈だが。

「それで・・・姉君は?」

「彼女は赤ん坊の私を自分が殺したつもりで居るので、私の事は分からないのですよ。今も自分の罪を悔いながら施設で祈りの日々を過ごしていると思います。」

―――――訳ありすぎる男と訳ありすぎる女か、案外似合いかも知れんな。

「紅茶。」

「え?」

「もう一杯いかがですか?口直しに。」

自分の生い立ちを、柔和な笑みでそう言ってしまえるようになるまでは随分葛藤があっただろう。

「お願いしようか。」

「イエッサー。」

今度は冗談めかして返事をしたダグラスがトレイを持って階下へ降りていく。
変わりに外国人と思しき賑やかな若い男女が階段を上がってきた。



 帰宅後すぐにいつものスーツに着替えた。やはりこの格好が一番落ち着く。
執務室でいくつかの資料に目を通した後、夕食を食べて食後の紅茶を飲んでいるとウォルターが珍しくそわそわと聞いてきた。

「それでお嬢様、如何でしたか。」

「なにがだ。」

「今日お会いした方でございます。」

ああ全く、この執事もアイランズ卿と同じで私の世話を焼く事に余念が無い。

「携帯の番号を交換しておいた。」

「何と!ではお気に召しましたので?」

「煩い、茶くらいゆっくり飲ませろ。」

そうは言ったがカップの中はもう空で、2杯目を注いで貰って詮索の時間を与えるのも業腹なので立ち上がった。
ウォルターも執務室にまでそう言った話を持ち込むまい。
夕方と呼ばれる時間帯にようやく没し始めた太陽に冬が近付いている事を感じる。化け物たちが闊歩する時間も長くなり始める頃だったが、その日は27時まで何事も無く過ぎた。この時間を回ると出動の確立は激減するので当直の隊員を除いた局員が仮眠となるかもしれない床につく。インテグラも自室に戻り、ベッドに入る前に汗を流した。

「知らん男の匂いがする。」

主人の寝室に勝手に沸いておいてそんな事を言う下僕にインテグラは渋面を向ける。

「そんな下らない事に鼻を利かさずとも良いものを。」

「若い雄の匂いだ。」

そんな事まで分かるのか。

「誰と会ってきた。」

「お前には関係ない。」

こういう言い方は、この男にしてはいけないと分かっているのについ言ってしまう。

「関係ない?その通りだ。」

肯定されておやと思ったが、油断したのは間違いだった。
体を引っ攫われベッドに落とされたかと思うと、あっという間に両手を頭上に縫い止められた。こうなるともう諦めるしかないのでインテグラは観念した。嵐と同じだ。
だが男が首のリボンタイを解いてそれでインテグラの両手を縛めるならば話は別だ。

「何するんだ!この馬鹿犬!!」

天蓋の柱に繋がれた両手の代わりに足で、インテグラのナイトドレスを脱がしに掛かっている男を蹴り上げようとしたが難なく阻まれた。

「他に男が出来ようと、お前が私の欲望の捌け口である事は何ら変わらん。」

「ふっざけるな!!」

「少し黙れお嬢さん。」

言って男がインテグラの口に指を突っ込む。男の長い人差し指と中指に舌を押さえ込まれたので文句も言えず、食い千切ってやろうかと歯に力を込めると男が面白そうに言った。

「食い千切られても私は一向にかまわんが、私の血をその口で受ける勇気があるのかお嬢さん?」

どきりとした。
生きた人間が吸血鬼の血を飲む。何が起こるかは分からないが、良いことは無いだろうという事だけは想像できる。
躊躇している間に男のもう片方の手が下着の中に滑り込み、インテグラの花弁を撫でさする。膝を閉じようと思っても男の体が間にあってそれも出来ない。花弁に沿って動いていた指が花芽を抑え付け捏ね回し始める。手袋に唾液を奪われ喉が渇いて呻き声すらも出せないのに、鼻から甲高い吐息が漏れる。
波が来る。そう思った瞬間に、男がそれをやめた。
驚いた。何故という疑問しかなかった。
男は今度はわざとらしく花弁を限界まで拡げると、その狭間に指を刺し入れる。指は最初すんなりと飲み込まれたが、すぐに軋み始める。蜜を吸った手袋の指はそれでも容赦なく出し入れされ、インテグラはすぐに昂ぶらされる。予感にぎゅっと頭上の手を握り締めた途端、また放り出された。
男の顔を見ると視線が合った。その唇は愉快そうに歪められていて、男の企みを雄弁に物語っていた。

「何か言いたそうだな主。」

男の指が口から出て行っても、カラカラになった口内はまだ言葉を発せる状態ではない。口を閉じて唾液の分泌を待っていると、男がインテグラの唾液に濡れた手袋で唇をなぞる。

「さあ、要求を、主。」

「・・・そんな、モノは、ない。」

望んでいるのはお前だ。私じゃない。
男の顔が凶暴に歪む。

「良いだろうお嬢さん、どこまで耐えられるかな。」

言って男はインテグラの体を折り曲げると、わざわざ目に入るように濡れたそこに舌を這わせた。思わず目を背けたがその厭らしい光景は瞼の裏に残っていて、花弁に這わされる感触とそれがリンクする。舌が指し入れられた時は、今度こそ間違いなく来ると思ったがやはりすんでで止められた。
どのくらい、そんな事を繰り返されたのか。
下腹で渦巻いている熱が胸まで圧迫して苦しい。体はくたくたで、意識を手放したいのに続けられる愛撫でそれも叶わない。胸から喉にせりあがって来るものを押し込めようとすると、代わりに目から熱いものが流れ出る。

「簡単な事だインテグラ。」

朦朧とした意識の片隅で悪魔が囁く。

「子供ではあるまい。自分のどこに、何が欲しいのか、分かっているのだろう?」

自分は知ってる。この責め苦から逃れる術を。

「さあ、オーダーを、我が主。」

「・・・くれ・・・」

たった一言で、この身の内に渦巻く炎を消せるのなら。

「お前のもので、わたしを貫いてくれ・・・」

「些か物足らぬが、了解だ主。」

貫かれた瞬間に上り詰めた。上り詰めて、なのに男は容赦なく抽挿し始める。

「やめっ・・・んっ・・・」

敏感になった内側を擦られ、突き上げられ、上り詰めたまま落ちることも出来ない。下腹で渦巻いていた熱は今や全身を支配し、蛇のようにインテグラの体を締め上げる。痙攣のように引き攣れ跳ね上がる体をもう自分の意思で制御する事も出来ず、男に揺さぶられるまま既に快感とも呼べないような苛烈な感覚に脳を焼かれる。瞼の裏でスパークしている光の中に身を投じたいのに、今日に限ってそれが出来ない。

「ア・・・カ・・・も、やめ・・・くれ・・・」

心臓が胸から飛び出しそうなほど脈打っていて、このままでは死んでしまうと本当に思った。
耳も唇も喉も鎖骨も、胸どころか腕の内側さえも触れられるだけで達した。達しただけ、男の欲望を呑み込んだそこが蠢いて、擦り上げられる快感をさらに増幅させる。最奥を突かれる度に脊髄を電流のようなものが駆け上がる。
追いつかない呼吸に喉がひりついて悲鳴すらも出ない。喘いでいた唇を塞がれた時に、やっと真っ白になった瞼の裏に安堵する。
インテグラはその僥倖に迷わず意識を投げ出した。



 瞼が重い。
全身の倦怠感と疼痛にインテグラはデスクの前でひっそりと溜め息を吐く。体内時計の狂いも無く定時に起きる事は出来たが、とても仕事をする気にならない。
上半身の重みを支えてるのさえ億劫で、背凭れに体重を預けて我知らず手首をさする。手袋とドレスシャツのおかげで隠された両方の手首には酷い内出血の痕が出来ていた。だが体の事などは瑣末な問題で、インテグラを本当に苦しめているのは疲労や痛みなどではなかった。
後悔しても、発した言葉は戻らない。
ぼろぼろの意地や矜持は修復の時間が必要で、今はあの男の顔すら見たくなかった。もう封印してしまおうかとすら思う。
―――――それともやはり、父を真似て女を宛がうか。
そう考えてすぐに頭を振る。色々な意味で自分には無理だ。
何故あの男は自分を主と呼びながら、自分が嫌がることばかりをするのだろう。自分が嫌がるのがそんなに面白いのだろうか。面白がらせてる原因が自分にあるのだとしたら、そのあたりから考えたほうが良いのかもしれない。
とは言え自分が自分で無くなる事が出来ればの話で、どう転んでも自分は自分でしか無い。
人でなしの言動に一々考え込むからいけないのだ、ああいう物だと思う事だ。
そう自分を納得させてようやく書類を手に取ったところに携帯の着信が成った。
自分がここに居て携帯に掛けて来る者などはまず居ない。怪訝に思って出てみると「ハロー」とひどく当たり前の挨拶が聞こえてきた。

『ダグラスです、今、大丈夫ですか?』

大丈夫かとは、手が空いてるかと言う事なのだろう。

「大丈夫だ、貴方は?」

『休憩時間です。』

いったい何事だろうと考える暇も無く、ダグラスが用件に入る。

『昨日の今日で図々しいと思われるかもしれませんが、デートにお誘いしたくて。』

「デート?」

気の早すぎる感が無いではないが、何日経ったから良いというものでもないのだろう。

『ええ、オペラはお好きですか?』

話の展開が速すぎて付いていけない。デートと言うと時間を決めて男女が会う事、という理解でいいのか。

「いや・・・」

『そうですか。』

がっくりと肩を落としたのが目に見えるような声音に思わず苦笑する。相手には見えないだろうが。

「嫌いという意味ではなく、行った事が無いから何とも言えないという意味だ。」

『じゃあ今度の土曜日いかがですか!』

食いつきの速さが尋常ではなかった。

『土曜なら15時からのプログラムもあるので日暮れまでには終わります。お互い大きな事件が無ければの話ですが。』

色々考えてくれては居るようだ。インテグラとしても気楽に話せる相手というのは貴重だから断る理由も無い。
正直、少し疲れていたのかもしれない。

「何事も無ければ、だな。」

『それじゃ土曜日にロイヤルオペラハウスの前に午後14時で。仕事に戻ります。』

矢継ぎ早に言って切れた電話を耳から離して眺める。休憩時間に慌しく掛けて来なくても良かったのではないかと思ったが、あちらの仕事が終わってからではこちらが忙しいだろうと慮ってくれたのかもしれない。
それにしてもロイヤルオペラハウスなど、ドレスコードがあるのでは無いだろうか。
またスカートか、と少しげんなりした。



 着せられた服の機能性の悪さを訴えるインテグラの渋面での苦情は、「当たり前です」というイザベラのむべなる一言で終わりにさせられた。

「この前のはちょっとした事で開くから落ち着かないとおっしゃっていたではありませんか。」

「それはそうだが・・・」

イザベラに着せられた、膝までがタイトでその下10cmほどがフレアになったスカート・・・マーメイドというのだそうだ・・・は歩くたびにパンと張って思うように進めない。それどころかいつも通りに歩こうとしたら危うくバランスを崩しかけた。

「ではこちらにされますか?歩きやすそうですよ。」

そう言ってイザベラが両手で掲げ持ったのはやはり同じマーメイドだったが、タイト部分がかなり短く、しかもフレア部分がレースで透けている。さらにレース部分が前割れになっているので歩いたらきっと膝から上まで丸見えだ。

「それは無理。」

「ですよね。」

にこりと笑ったイザベラに全ての反論を封じられてはもう黙るしかない。

「さあ、髪を結いますから鏡の前にお座りくださいませ。」

気楽にOKした事がこんな大事になるとは思っていなかった。
そんなこんなで気合の入りすぎたイザベラに開放してもらって、執事の運転する車で劇場の前まで来れたのは約束の時間ぎりぎりだった。執事がこちらに回ってくる前にドアを開けて降りようとして、スカートが音を立てて張ったのに顔を顰める。

「お嬢様、そんな顔をされるものではありませんぞ。」

そう言って差し出してくれた執事の手を仕方なく借りて何とか車から降りる。

「お帰りの際はご連絡くださいませ。」

お辞儀をして、ウォルターはさっさと帰っていってしまった。普段なら終わる時間を考えて迎えに来てくれるのに、何故今日に限って連絡しろなどと言うのだろう。
不思議に思いながら劇場の入り口付近に目を凝らすと、呆け面で立っているダグラスらしき人物を見付けた。はっとしたようにこちらに向かって歩いてくる。

「綺麗な人が居るから驚いた。」

「やめてくれ、今トリハダがたったぞ。」

歩き出そうとして、バランスを崩しかけた。足が開けない上に低いとは言えヒールなど履かせられたせいだ。ダグラスがとっさに腕を持って支えてくれなかったら恥をかくところだった。

「すまん、あまり慣れてない。」

「大丈夫、私の腕に掴まって。」

さすがに今日は三つ揃いで頭をきれいに撫で付けたダグラスが肘を曲げて腕を出す。不承不承それに掴まらせて貰ってよちよちと劇場に入った。

「ごめん、ちょっと奮発して上の席なんだ。」

詫びの理由は歩く距離が長くなるからだろう。だが見たところ桟敷席に行って人の間を縫うよりは遥かに良い様に思えた。
3階のバルコニーボックス席は4人用らしく二人だと広いくらいだった。

「運悪く途中退席する事になってもボックスだと迷惑にならないからね。」

お互いそうならないとは限らないから有り難い心遣いではある。この時間帯だとインテグラよりもダグラスの方が呼び出される確立は高いが。
2階のバーカウンターで一服して開演10分前に席に戻る。
演目は『さまよえるオランダ人』
忌々しい嵐のせいで故郷を目前に入り江に停泊した船の船長が、風を頼りにするのは悪魔の慈悲に縋るも同じだと歌い、見張りを任された舵手は愛しい恋人を思って歌う。
一方、同じ入り江で7年に1度の上陸を果たしたオランダ人が呪われた我が身を嘆く。希望ですらも絶望的でしか無いのなら、いっそこの世界全てが滅んでしまえば良いと。
彼の呪いを解く方法は唯ひとつ。
地を這うようなバリトンが胸を締め付ける。何故だろう、あの男の事を思い出してしまったのは。
あの男は不死を嘆いてなどいないし乙女の愛も貞節も必要とはしていない。自分はあんな横暴で凶暴で下品で下劣で身勝手な闘争狂に同情なんてしない。
思い出したら腹が立ってきた。だから鼻の奥が湿っぽいのはそのせいだ。
そんな事を考えていたら、隣で鼻をすする音が聞こえた。

「おい、まだ泣くところじゃないだろう。」

小声で言うとダグラスが「そちらこそ鼻声ですよ」と返してきた。
家族に恵まれなかった彼は暖かな家庭と故郷を欲して漂泊するオランダ人に自分を重ねたのだろうか。彼のような人間はやはりちゃんとした普通の家庭を持つべきではないのか。跡継ぎを作るという自分の勝手な都合で他人を利用しようとしていた自分は恥知らずの愚か者だ。
オペラは色々な意味で身に詰まされて、あまり楽しめたとは言い難かった。
休憩のない2時間通しのプログラムに流石に疲れて、館内のレストランで食事をする事になった。
夕食は要らない事を執事に連絡して、ダグラスには強引に奢らせろと言って丁度空いていたプライベートルームを取った。

「疲れましたか?」

「うん、ボックス席だったが、やはり人の中に居たって気分だな。」

「もう少しラフな格好で来れば良かったですね。実はここは、ドレスコードが無いのですよ。」

「本当か!?」

そう言えば桟敷席にはバックパッカーと思しき人々も多数見かけたから不思議に思っていた。成る程、ドレスコードが無かったのか。知っていてもどうせウォルターやイザベラがいつもの格好では外出させてくれなかっただろうが。
他愛も無い話をしながら出てくるコースを片付け、お酒から紅茶に変えてもらった食後のそれを飲みながら、インテグラは意を決して口火を切った。

「ダグラス、私はまだ、貴方にフェアじゃない秘密がある。」

談笑していたダグラスがインテグラの声音に表情を改める。

「この秘密を貴方に共有させるのは忍びないな・・・」

自分が軽蔑されて罵られるのは構わない。だが彼にそうさせるのは気の毒すぎる。

「それは、私は振られる・・・という事ですか。」

「申し訳ない。そもそも自分が間違っている事に気付いたのがさっきだった。」

「どんな秘密でも受け入れます。と言っても?」

「貴方には、私以外の女性と幸せになってほしい。」

ダグラスが背凭れに体を預け、無理やりに苦笑する。

「けっこう良い感じだと思ったんですけどね。」

「虫の良い話だが、友人にはなって欲しいと思っている。」

ダグラスは真顔になり、自分の席を立って傍らに歩いてきた。怒ったのだったら、当然だろう。

「思い出にキスをひとつくれるのなら。」

一瞬意味が分からずに、数秒考えてやっと理解する。理解した途端に顔が熱くなった。

「意外と初心なんですね。」

「な、何を言って・・・」

「言葉通りですよ、キスひとつで諦めます。」

手を差し出されて、それを借りて立ち上がった。それで振り回した詫びになるのなら。
顔が近付いてくるのに反射的に目を閉じて、触れた暖かな唇に自分が嫌悪感を感じていない事にほっとする。だから腰に腕を回されて頭の後ろに手を添えられてもされるがままになっていた。
突き飛ばしたのは思わずだ。まさか彼の言うキスがそういうものだとは思っていなかったから、舌が入り込んできた途端に我に返った。

「すみません、友人は無理です。」

似合わない酷薄な笑みを浮かべたダグラスにそれ以上何が言えただろうか。全ては自分の浅はかさが招いたことだ。
これは多分、彼の優しさだから自分が謝ってはいけないのだ。

「帰る。」

ダグラスを置いてプライベートルームを出てカードで会計を済ませると、携帯で迎えを呼んだ。外はもう黄昏時で、もうすぐ魔物も闊歩する夜が来る。
迎えの運転手は執事ではなかったが、今は有り難かった。



 屋敷に戻る頃にはすっかり日が暮れていて、インテグラは急いで仕事着に着替える。
疲れはあったが、とりあえず仕事に支障はないだろう。
執務室へ向かおうと私室のドアを開くと、目の前に紅い巨体があった。もう起きだして来たのかと少し忌々しい気分になる。

「何をした。」

オペラ歌手張りのバリトンも、インテグラ同様に大層不機嫌そうだった。

「何を、とは?」

「お前の部屋に入れん。」

「なら成功だな。」

今朝の内に実験していた術式が上手く行った様だ。

「私の部屋いっぱいに、霊的に新しい領域を設定したんだ。置き換わった訳では無いからどうかと思ったんだがな。」

吸血鬼は、先ずその領域の主の許可が無ければそこには入れない。

「その匂いの持ち主の為か?主。」

「確かに、彼を連れ込んでいる最中にお前に乱入してもらうと困るな。」

男の手が迫ってきたが、廊下と部屋の境で見えざる壁に弾かれた。
弾かれた手をそのままに、不服そうに歪められた白皙にインテグラは少しだけ溜飲を下げる。

「お前のやり様に命の危険を感じただけだ。お前だって私の命を危険に晒す気は無いだろう?」

他の何を信じられなくても、それだけはこの男を信じている。
男の横をすり抜けて部屋を出た。男は動かなかったが、まさかインテグラの言葉に反省しているわけでは無いだろう。
何を考えているのかなどと考えるだけ無駄なこと。

「塒へ帰れ従僕。用があれば呼ぶ。」

そう男に投げかけて、インテグラは執務室へと向かった。




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