◆交響曲第二番―symphonyNo2―


 その日の任務はまだ宵の口といっても良い時間の、しかもロンドン塔にもほど近い市街地が現場となった。
まだ人の多く出歩く時間の街中での捕り物は困難を極めると判断したインテグラは、実働部隊の本隊を動かさずにアーカードを単独で投入する事にした。
数人の警護と後処理班と共に、その影に従僕を潜ませて自ら現場に赴いたインテグラの乗った車は、密やかにその影から放たれた物を待って街中の路地に停まっていた。車のすぐ横に建っている古いビルの中ではアーカードの手によるごみ処理が行われているはずだ。
銃は使うなと言った。あの大口径の銃の音がしてはこの作戦を取った意味が無い。
少し先の大通りに闊歩する人々を眺めながらインテグラは紫煙を吐き出し目を細める。素手で相手の化け物を屠るアーカードの姿が容易に想像できた。
数分後、人間のように出入口から出てきたアーカードの姿を認めて、後処理班がビルの中に素早く入っていく。 インテグラも葉巻を灰皿に擦り付けて車から降りた。案の定、彼に殺戮の痕跡など微塵も無い。

「任務完了だ、我が主。」

「ご苦労、従僕。」

従僕にいつもの労いの言葉を掛けたインテグラは、後ろに控えたボディガートを振り向く。

「少し散歩するからテンプルガーデンのあたりに車を回して待っていてくれ。」

「は、しかし・・・」

「大丈夫だ、こいつが居る。」

立てた親指でアーカードを示す。

「・・・了解しました。」

僅かな迷いを見せながらも、しかし上司の命令には逆らえずにボディガードは腰を折った。

「アーカード、入れ。」

今度は従僕に向かって自分の足元を指す。不服そうに眉を寄せながらも、アーカードは主人の命に従ってインテグラの影に溶け込んだ。皮膚の下を蟲が這うような、慣れようの無い違和感。インテグラは男の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、大通りに向かって歩き出した。
普段、煩わしいとしか感じないはずの人の流れがやけに心地良く感じるのは何故だろう。暫く人いきれの中を歩き、やがて通りを抜けたインテグラは川沿いの遊歩道へと足を向けた。 街灯が立ってはいるものの、やはり店の灯りに照らされた大通りに比べると暗い。上を見上げると、木立の合間に星が見えた。今夜は月は出ていないらしい。

「どうした、主。」

インテグラの常ならぬ行動に、いつの間にか後ろを歩くアーカードが訝しげに問う。

「誰が出てきて良いと言った。」

怒っているような言葉は、しかし叱責の色は薄かった。
どうしたと問われてもインテグラにも分からない。そもそも気紛れに理由などは無いものだろう。
無言のまま歩き、丁度見えてきたベンチに腰掛けてからインテグラは口を開いた。

「そうだな、本当に「どうした」だ。ロンドンの街中を吸血鬼つれて散歩だなんて正気の沙汰じゃない。」

「私は嬉しいがな。」

「嬉しい?」

前に立つ赤い長身の言葉に、今度はインテグラが訝しげな表情を向けた。

「何もしてないだろうな?お前。」

「何もとは?」

「通行人とかに・・・」

「そのような暇があったかね?」

「分かるものか。」

じゃあ何が嬉しいというのだろう。インテグラにはアーカードの考えている事が未だによく分からない。それは押し問答をしても理解しようの無いことなので不毛な会話をやめて目を閉じる。寝不足のせいで乾いた瞳が痛かったからの何気ない所作だったのだが、冷たいものが口に触れたので驚いてすぐに目を開けた。
目の前に、白皙の美貌。

「うわぁっ!!」

色気の無い悲鳴を上げたインテグラに犯人が顔を顰める。街中ほどではないがそれなりに人通りはある。

「ムードが無いなお嬢さん。」

「なっ、なっ・・・何をする!!」

「今さら口付け程度でそんなに赤面することも無いだろう。」

「ばっ、馬鹿!!お前はムードよりもTPOを・・・」

真っ赤な顔で怒鳴るインテグラの視界に、近付いてくる人影が入った。
女性らしきその人影は、少し向こうで足を止めてこちらを凝視している。ひょっとしてさっきのを見られてしまったのだろうか。しばらくして動き始めたその女性は、どうやらこちらに故意に近付いてくるようだった。

「インテグラ?」

艶のあるメゾソプラノに名前を呼ばれて驚き、相手を凝視する。タイトなスーツに身を包んだキャリアウーマン風の美人の顔には確かに見覚えがあった。

「エリザベス?」

「やっぱりインテグラ、奇遇ね。」

彼女は嬉しそうにインテグラに近寄ってくる途中でぴたりと足を止めた。

「ごめんなさい、デートのお邪魔だったかしら?」

インテグラの傍らに立つアーカードを横目でちらりと見て言う。

「別にデートなんかじゃ」

「構いませんよ、お嬢さん。」

リズの言葉を否定しようとしたインテグラの言葉は、アーカードによって遮られた。猫を10匹ばかり被った狂犬が向けた柔和な笑みが、彼女を惚けさせたのがはっきりと見てとれる。しばしアーカードに見蕩れた後にやっと我に返ったリズが、頬を染めながらそそくさとインテグラの傍に来た。
何となく不愉快なのはアーカードにだろうか、それともリズに?
昔よくそうしたように、リズは断る事無くインテグラの隣に座って内緒話をするように耳元に唇を寄せてきた。

「インテグラの彼、すごく格好良い人ね。」

一見、見目形は整っているかもしれないが中身は最悪だぞ。しかも人でもない。とは口に出さずにインテグラは眉を顰める。

「ごめんね、怒ってる?」

少しだけ身を引いて眉尻を下げたリズに、インテグラは慌てた。

「いや、怒ってなんかいない。少しびっくりしただけだ。まさかこんな所で会うなんて思っていなかったから。」

数年前に会ってから何度か手紙のやり取りをしたが、仕事に忙殺されてなかなか返事を書くこともままならず、結局疎遠になっていたのだ。

「確か新聞社に就職したんだったな。」

随分前に貰った手紙に書いてあったことを思い出す。

「そう、もう毎日残業よ。今日も今仕事の帰りなの。」

言って、リズは手を組んで頭上に伸ばし背伸びをする。

「何だか疲れちゃったから気分転換に散歩してたの。まさかインテグラに会えるなんて本当にびっくりよ。」

屈託無く笑うエリザベスに、インテグラも表情を緩める。こうしてインテグラをただのインテグラとして見てくれる人間は希少な存在だ。

「でもインテグラ、デートにその格好は無いんじゃない?それとも彼の趣味?」

パンツスーツ姿のインテグラを上から下まで眺めてエリザベスが言う。だからデートでも無いし恋人でも無いのだと説明しようとしたのに、先にアーカードにまたもやリズの言葉尻を取られてしまった。

「その通りですよ、女らしい格好などされては他の男が寄ってくるのでね。」

言葉の内容よりも、むしろその紳士面した言葉遣いに思わず寒気がした。

「うふふっ・・・ご馳走様です。」

身を震わせたインテグラの横でリズが笑い、またそっと内緒話を持ちかける。

「ねえ、あの人が例の彼?」

「・・・例の?」

「ベッドで主導権を握られっぱなしの彼よ。」

「リッ・・・リズッ!?」

思わずリズの前に立ったインテグラは耳まで赤い。幼かった自分のしでかした事を思い出した。我ながら馬鹿な事をしてしまったものだ。

「やっぱり、そうなんだ。」

リズも立ち上がり、インテグラの肩に手を置く。

「ごめんねデートの邪魔をして。私行くわ、またね。」

固まっているインテグラの両の頬に自分の頬を交互に付けて別れの挨拶をして、リズはさっさと手を振って行ってしまった。この置き去りにされてしまった状況をどうしたら良いのだろう。リズに対して恨みがましい気持ちになる。

「成る程。」

背後で言った声に振り向きたくない気持ちで一杯ではあるが、ここで動揺してはいけない。

「何が、成る程なんだ?」

精一杯平静を装って言ったインテグラに、アーカードは先ほどまでの猫はどこへやらの悪魔めいた笑みを向ける。

「あれが例のルームメイトか。」

予想通り内緒話は筒抜けだったらしい。化け物の聴覚の賜物だ。それにしても何でこいつはこうも余計な事ばかり憶えているんだろう。

「帰ってあの時のリベンジをしてみるか?」

「いらん!!」

怒鳴って踵を返し、屋敷へと向かって早足で歩き出す。背後で含み笑いが聞こえて余計に腹が立った。

「影に入れ、従僕。」

人通りが途絶えたタイミングで、いつもよりワントーン低い声で言ったインテグラにアーカードは肩を竦める。

「了解、我が主。」

従僕が影に入ってもまだ笑い声が聞こえてくるようで、気楽な散歩を楽しむはずだったインテグラは、荒い足取りでテンプルガーデンへと歩くのだった。


 記者のエリザベス・リーデンはロンドンの繁華街を歩いていた。一緒に居るのはカメラマンのマーク。プライベートでは無く仕事だ。月一回とは言え初めての連載を任されたリズは張り切っていた。報道を目指すリズにとって『ロンドンの人気デートスポット』と言うテーマは多少不本意なものではあったが、それでも間違い無く確実な第一歩である。
予めアポイントを取っていたそのバーは、なるほどとても雰囲気の良い所だった。店内の風景と注文した幾つかの料理や飲み物をカメラに納めているマークを横目に、持参したデジタルレコーダーに店の者や客からインタビューを録る。ひと仕事終えてから二人でカウンター席に座った。

「会社の経費でこんな素敵な所に来れるなんて役得ね。」

「相手が俺じゃなけりゃもっと良かったのにな。」

「あら、そんな事無いわよ。」

リズのその言葉はおべっかでは無く本音だ。
リズへの期待の大きさか、それとも頼り無いから心配されての事なのか、今回パートナーとなったマークは社内でも有数の才能あるカメラマンなのだ。
他愛も無い話をしながら軽めのカクテルを三杯ほど飲んで店を出た。

「おっ!リズ、ラッキーだぞ。」

店を出た途端の、カメラのフィルムを抜き換えながらのマークの言葉にリズは彼の視線の先を追った。
道向かいの路地の入り口に立入禁止のテープが張られ、その周りを数人の通行人が遠巻きに眺めている。
事件だ。なるほど新聞記者と新聞カメラマンの二人にとっては僥倖と言えた。
通行する車が途切れるのを待って急いで道路を向かい側へと渡る途中で、マークが忌々しげに呟いた。

「チッ・・・奴らか・・・」

渡り切ったリズが現場へ向かおうとするのをマークが腕を取って引き止める。

「マーク?」

「駄目だリズ、奴らが居る現場は取材できない。」

「奴らって?」

立入禁止のテープの前に立って居るのは、どうやら警察でも特殊部隊でも軍でも無いようだ。見たことの無い制服を着ている。

「ヘルシング機関だ。」

「ヘルシング機関?」

「そうだ、表向きヘルシング伯爵の私兵団だが、お貴族様の道楽にしちゃあ武装が半端じゃ無い。それにどうやら警察よりも特権を握っている節があってな、あいつらの居る現場は取材出来ないんだよ。やろうとした事もあるが、上から圧力が掛かった。・・・っと、噂をすればお出ましだ。あれがヘルシング伯爵だ。」

マークに指摘されなくても、リズの目は現場に来た一台のロールス・ロイスに釘付けになっていた。運転席からまわって来た年配の紳士の手によって開かれた後部座席から、一人の痩身の女性が降り立つ。それは、たまにしか会うことは無いが一緒に学生時代を過ごした、確かに友人と言えるはずの人間だった。
しかし、その彼女の峻厳な面持ちと雰囲気に圧倒されてリズは近寄って行くどころか一歩も前に進めない。路地から出てきた、制服を着た年配の男性と話をして支持を出しているらしい彼女は、リズの知っている頭は良いが世間知らずで無垢な少女ではなかった。

「どうした?リズ。」

じっと伯爵を凝視するリズにマークが訝しげな声を掛ける。

「行こう、ここに居たって取材できないなら時間の無駄だ。」

「待って。」

先に行こうとしたマークの腕を、今度がリズが掴む。路地からさらに見覚えのある人影が現れたのだ。
あれはそう、前に偶然インテグラに公園で出会ったときに一緒に居た男性だ、間違い無い。私兵の隊員が恋人であっても別に何ら不思議ではないが、制服は着ていないので隊員では無いのだろう。ではいったいインテグラたちはここに何をしに来ているのだ。武装兵と立入禁止のテープで周りを固めて逢瀬という訳でも無いのだろう。ならば私兵を駆って夜の街中でいったい何をしていると言うのか。
二人を凝視していると男の方がこちらを向いた。何の逡巡も無く目が合ったことに驚く。リズが見ている事を知っていたとしか思えない。
男が唇の端を持ち上げたのが見えた。唇が動く。「インテグラ」と。 はっとしてインテグラに視線を移すと、彼女は眉間に皺を寄せてリズを見ていた。困ったような、少し怒っているような。それはリズのよく知っている友人の顔で、それでやっとリズは足を動かす事に成功する。手を挙げて振りながら二人に近付いた。

「ハイ、インテグラ。」

唐突に歩き出したリズの後を、マークが焦りながらついて行く。

「何か物々しい雰囲気だけど、いったい何をなさってるのかしら?お二人さん。」

茶化す口調で言ったリズに、あの男が頭上から笑いを含んだ声で言った。

「夜の男女に『何を』とは、少々無粋というものだろうお嬢さん。」

「黙れ、余計な事を言うな。」

すぐさま憮然としたインテグラの一言が覆い被さったが、男はどこ吹く風だ。

「すまないがリズ、ノーコメントだ。マスメディアとして来たのなら更に御免こうむる。即刻この場を立ち去りたまえ。」

カメラを手にしたマークを冷たい瞳で一瞥してのインテグラの固い声音に、リズは少なからずショックを受ける。それはやはり、今夜初めて見た知らない女の声だった。

「局長、処理が完了しました。」

傍でインカム越しに遣り取りしていた年配の男性がインテグラに声を掛ける。それにインテグラは鷹揚に頷いた。

「撤収だ、急げ。」

男性が会釈を返し路地に消えるとインテグラは踵を返す。紳士がそれを見て車のドアを開き、乗り込もうとするインテグラの背中にリズは思わず叫んだ。

「待って!!インテグラ!!」

「アーカード、乗れ。」

インテグラはリズの声を無視し、男を車内に誘うとさっさとドアを閉めさせる。静かに走り出したロールスを、リズは呆然と見送った。

「何だリズ、伯爵と知り合いだったのか?」

「学生時代の友人よ・・・でも・・・」

あんな尊大で冷たい女なんかは知らない。人違いであって欲しい。でも彼女は確かに自分の名前を呼んだ。彼女はやはり自分の知っているインテグラなのだ。
自分の大切な友人を変えてしまった何かがあるのだと、リズは思った。

「マーク、前に取材しようとしたって言ってたわね。詳しく聞かせて。」




 市街地を抜けて走る車の中、黙り込むインテグラに下僕である男はほくそ笑む気配で口を開いた。

「良かったのか?」

「何がだ?」

跳ね上げた眉の下、サファイア色の瞳が男を睨み付ける。
あの場に置いて行くわけには勿論いかず、妙な事をされても困るので車に乗せるしかなかった下僕を、インテグラは忌々しげに見た。

「お友達にあんな態度をとって良かったのかね?と聞いている。」

アーカードの言葉にインテグラはますます眉間に深く皺を刻み込む。本当の事を話すわけにはいかないのだ。ああするしか無いではないか。
他の現場でやはり学生時代の知人に出会う事はあった。しかし無視していれば向こうの方で勝手に人違いだと勘違いして去ってくれる。名前を呼ぶなど失態を犯してしまったのは、やはり彼女がインテグラの中で別格の存在だったという事だろうか。
インテグラの沈黙をどう受け取ったのか、アーカードはいつになく饒舌に言葉を続ける。

「このまま事が済むと思っているのなら大きな間違いだインテグラ。私にはあの女がやる気満々なのが見て取れたぞ。ああいった手合いを放っておけば後々厄介な事になるのは目に見えている、そうでは無いか?」

それでも黙っているインテグラを追い詰めるかのように下僕は畳み掛けた。

「何なら主人の憂いの原因を私が取り除いてこようか?」

「アーカード!!」

下僕の言葉に女主はやっと反応した。冷たい硬質の瞳に怒りの炎を燃やして男を見据える。

「彼女に手を出す事は絶対に許さない。」

主人の命令として放たれた言葉に、アーカードは肩を竦めた。

「後で後悔しても知らんぞ、主。」

「余計な世話だ。」

車は私道を抜け、開かれた門扉の中に入っていく。その日の出来事は、アーカードの言う通り後に禍根を残す事となった。



 ひと月も経ち、インテグラも忙殺されて現場でリズに出会った事を忘れかけていた頃、執務室の黒檀のデスクの上のノートパソコンのキーを叩いていたインテグラの元へ執事がやってきた。もう茶の時間かと思いきや、そうでは無いらしい。

「お嬢様、少しお耳に入れておきたい事が。」

「何だ。」

手を止めて執事を見ると、何やら苦い顔だ。何か不都合な事でもあったのか。

「実はここ暫く我々の周りを嗅ぎまわっている者がおりまして。」

「嗅ぎまわって?」

「はい、新聞記者なのですが円卓から圧力を掛けてもいっこうにやめる気配が無く。」

言葉を継ぐ執事はいつになくどうにも歯切れが悪い。執事が言い難そうなのは本来ならばそのような瑣末はインテグラの耳に入れるような事ではないからだ。そう言った輩には飴か鞭で対処するのが定石。つまり、幾ばくかの金を与えて手を引かせるか、少々恐ろしい目に合わせて手を引かせるか。

「こちらを・・・」

そう言って執事が差し出したのは双眼鏡。

「いったい何のつもりだウォルター?」

「私道の出口付近でございます。」

「?」

不思議に思いながらも双眼鏡を受け取って席を立ち窓へと寄ると、インテグラは塀で囲まれた屋敷の門から続く私道の先、私道の脇に植えられた並木が途切れるあたりに双眼鏡を合わせる。そこには一台のセダンが停まっていた。中に男女の姿が見える。
全くこんな所でデートとは失礼なカップルだ。と思いながらも執事に促されるままに見た男女の顔に、というより女性の顔にはっと息を呑んだ。

「・・・リズ。」

「はい、どうやら先日の出動の際にお会いになられたご友人のようでして。如何いたしましょう?」

双眼鏡を執事に返し、インテグラは大きな溜め息をつく。

「敷地に入っていないのではどうしようも無いだろう、暫らく放っておけ。」

「承知いたしました。」

一礼して出て行く執事を見送って、厄介な事になったとインテグラはまたひとつ溜め息をついた。

「だから言っただろう、厄介な事になるぞと。」

そんな心を読んだかのような男の声に、弾かれた様にインテグラは振り返る。そこには昼の光の下でさえも陰鬱でありながら、凄絶な美貌を持つ彼女の下僕が立っていた。

「随分と早起きじゃないか。」

不機嫌に言い放つ主人にアーカードは薄い笑みをその相貌に貼り付け、洒脱に片眉を上げる。

「何、お前が私に用があるのではないかと思ってね。」

言外に、始末してやろうかと言っているのだこの魔物は。
相手が全く知らない人間であれば、機関の事を嗅ぎ回るマスコミなどは百害あって一利なし。「そうしろ」と言ったかも知れない。だが残念ながらそうでは無かった。

「せっかくだが今のところお前に用は無い。寝床で休んでいてもらって結構だ。」

言い放ち、仕事に戻ろうと椅子に手を掛けたインテグラのその手を、いつの間にか音も無く彼女のすぐ後に立った男の手に握られる。

「つまらん。」

「お前の詰まる詰まらんなど私の知った事か。離せ!!」

「詰まってはいないが溜まってはいる。」

「ばっ、馬鹿か、それこそ知った事じゃ無い。離せと言ったら離せ!!」

男の意を汲み取ってインテグラは手を引こうとしたが、当然の事ではあるがその手はびくともしない。
アーカードのもう片方の手がインテグラの頤を掴み、その口を開かせる。閉じる事を阻まれたその唇に施された深い口付けを、インテグラは受けざるをえなかった。

「ん・・・」

冷たい軟体動物のように、インテグラの口腔内をアーカードの舌が蹂躙する。お互いの唾液を混ぜ合わせ、男はさも美味そうに啜り上げた。
逃げようと後退さった足はすぐに黒檀の机に邪魔されて、インテグラはその角に腰掛けるような格好になる。足の浮く事になったインテグラの両膝の間に、アーカードは自分の足を割り込ませて逃げ道を塞ぐと、すかさずインテグラのトゥラザースのベルトとジッパーに手を掛けた。支えを失ったそれは重力に従って床に落ち、インテグラの腿が顕わになる。

「よせっ!!・・・っ」

薄い下着越しの愛撫にインテグラは抵抗の動きを止めて体を強張らせる。下着の上からでも的確にアーカードの指はインテグラの敏感な部分を捉えた。

「お前の方も溜まっているのでは無いか?」

揶揄する口調で言い、刺激に反応して固くなっていくインテグラのそこを指先で捏ね回す。
布と布の擦れ合う感触が変わった事にアーカードは唇の端を上げて笑みを浮かべながら、一旦退いた手の手袋を抜き取った。そんな化け物を睨めつける女主人の顔はうっすらと朱を刷き、艶めいたサファイア色の瞳は化け物の支配欲を煽るだけだ。

「私はお前の主人だぞ、従僕。」

「その通りだ、主。」

「私はやめろと言っている。」

「こんなに濡らしておいては説得力が無い。」

するりと入ってきた指が花弁を押し広げ、秘裂へと挿し入れられ中で蠢き始める。インテグラは再び体を強張らせてアーカードの腕を握り締めた。
ジャケットの釦を外したアーカードの手がシャツの上から膨らみの片方を捉え、その弾力を楽しむように揉みしだきながら今度は耳元に口付けを落とす。耳朶を軽く噛み、凹凸に沿って這わせられた舌が耳孔へと差し込まれた。 反射的に首を竦めたインテグラが眉を寄せる。主人が快感を得る場所を下僕はよく理解していた。アーカードの指の動きに濡れた音を放ち始めたインテグラの秘裂に、下着の脇から猛った分身を突き入れる。剣に設えられた鞘のように、初めからそうあるべきであったかのようにアーカードのものを受け入れたそこが、蠕動して男を味わっているのが自分自身にもそれと知れた。

「私のものを呑み込んでひくついているぞ、そんなに快いか?」

「言うな!!」

まるで男を逃すまいとするように自分の内側がアーカードを締め付けているのが、穿たれたものの存在感に嫌と言うほど思い知らされて居た堪れない。
日の高いうちから仕事場で化け物との交わり。倫理観のかけらもない。最低だ。

「また下らん事を考えているな?」

「下らなくない・・・私には大事な事だ。」

最強にして最凶の力を使役しているというのに、その自分が倫理観すらも無くしてしまえばどうなる。
だが突き上げられ、追い立てられているうちにそんな当然の理性さえも意識の隅に追いやられる。
神はなぜ、神聖なものであるはずの男女の交わりを、こんな自堕落な振る舞いにしてしまわれたのだろう。
インテグラは自身の想いと裏腹に堕落する躰を持て余すばかりだ。

「いやぁ、良いねぇ・・・生唾ものの被写体だ。」

「ちょっと、何してるのよマーク。」

車の中からヘルシング邸にカメラのレンズを向けて覗き込むマークに、リズは顔を顰めて言う。

「私たちは覗き見しに来てる訳じゃ無いのよ。」

「そう言うなってリズ、あんな美男美女のカップルは映画の中にだって中々いやしないぜ。まあちょっと見てみなって、いい所だから。」

「ちょっと、やめてよ!!」

カメラを押し付けてくるマークにリズは抵抗したが本気ではない。ここでインテグラか、もしくは武装した部隊が出てくるのを張り込んでいるのは結構退屈ではあったし、他人の内情を覗き見たい気持ちというのは多少の差異はあっても誰しも持っているものだ。
渋々といった風を装ってカメラを覗き込んだリズは、あっと声を漏らしたが目を離す事は出来なかった。
大きな黒いデスクの傍に立つ男の紅いコートの腰辺りから褐色の足が覗いていた。コートの陰になっていてよく見えないが、ちらちらとインテグラのものと思われる金髪が肩越しに揺れる。まさにそれは情事の真っ最中だった。男の腰が淫靡に動くのと同じリズムで揺れる足が、引き攣ったように硬直すると、ふいに仰け反ったインテグラの扇情的な表情がレンズの中に映し出された。ごくりと喉を鳴らしたリズは次の瞬間、慌ててカメラから顔を離した。

「どうした?見ものだっただろう?」

「目が合った。」

「え?」

「こっちを見たわあの男。」

振り返ったあの男の目は、アンバーと言うよりは血の色に見えた。

「まさか、焦点距離1600mmの超望遠だぞ。気のせいさ。」

「だって、こっちを見て、笑ったもの・・・」

気のせいだと思いたい。カメラから目を離せば屋敷の窓が見える程度で、当然ながらその中の人影など見えはしない。しかし彼は確かにリズを見て笑ったのだ。その目にぞっとした。珍しい色の瞳だからというだけでは無い。あんな目を持つ人間が居る事にリズは心底、胆の冷える思いがした。

「おい、リズ、携帯鳴ってるぞ。」

考え込んでいたリズはマークに肩を揺すられはっとする。慌てて取り出した携帯の通話ボタンをプッシュして耳に当てた。

「はい、エリザベスです。」

言って、リズは受話器の向こうの声に耳を傾けた。神妙な面持ちで聞きながら、ちらりとマークの顔を見る。

「マークですか?いえ知りませんが。違います、一緒には居ません。はい、はい・・・ 結構です。それでは失礼します。」

携帯を耳から離してボタンを押したリズにマークが尋ねる。

「会社からか?」

「ええ、クビですって。」

「何だって!?」

「貴方を巻き込むつもりは無いから心配しないで。」

「そんな事を言ってるんじゃないだろう。・・・やっぱり手を引いたほうが良かったんじゃ無いのか?」

「良いのよ、これは私個人の問題だから。」

「リズ・・・」

何故こんなにも自分が躍起になっているのか正直言ってよく分からない。インテグラに迷惑がられ、夢としていた職を失いまでしてしなければならない事なのか。
ただ知りたい。知って、出来るならば何かインテグラの助けになりたい。そんな漠然とした想いだけがリズを突き動かしていた。



 午前2時。ヘルシング邸の窓や隣接する建物の灯りが増えるのをリズは見逃さなかった。後部座席で毛布にくるまったマークを揺り起こして声を掛ける。

「マーク、動いたわ。」

張り込みに慣れているマークはすぐに起きて運転席に着く。助手席で赤外線付きの双眼鏡を覗いたリズは数台の装甲車が裏口へと動くのを発見した。

「裏のほうだわ。マーク、お願い。」

「了解。」

エンジンを掛けて車を動かそうとしたその時、車は闇に包まれた。

「なっ・・・何だ!?」

「やだっ、何!?」

まるで大雨が突然振り出したかのように、バタバタと何かが車体を叩く音が車内に溢れる。闇は黒い何かの大群だった。

「蝙蝠!?何故こんな急に!?」

車を包み込んで尚も視界を妨げるほどの大きな群れが、気付かない内に近付いていた事も驚きだが、何よりもそんなものに自分たちが取り囲まれている事のほうが気味が悪い。まるでヒッチコックの映画だ。
困惑する二人をよそに、暫くするとそれは波が引くようにあっけなく居なくなった。

「何だったんだいったい・・・」

呆然とするマークよりも先にリズが立ち直って彼を促す。

「マーク、それよりも早く!!」

装甲車はすでにその姿を消していた。
郊外では町の集会所がヘルシング機関の作ったバリケードに囲まれていた。そのすぐ外側に停められたシルバースピリッツの車内でインテグラが舌打ちして吐き捨てる。

「無能な警察幹部どもめ!!何故もっと早く連絡してこない!!」

集会所の中も外も屍食鬼で溢れていた。制服を着た者も大勢居るようだ。対面や面子ばかりを慮って外部に助けを求める事を良しとしない上司たちのせいで彼らは犠牲になったのだ。
苛々とインカム越しに報告を聞くインテグラの車の傍に、黒い大群が舞い降りて人の形を象って行く。インテグラは車から降り立つとその塊に怒鳴り散らした。

「遅い!!」

「八つ当たりはよせ。」

主人の勘気にも飄々たる男に、顰めた顔もそのままインテグラは腕を組む。

「飛んで来られるんだから少しの寄り道くらいで遅刻するな、この愚図。さっさと行って親玉を始末して来い。」

機嫌が悪いらしくいつもより更に口の悪さを増した主人の言葉に、下僕は気分を害したふうも無く建物へと足を向ける。
男が建物へ入っていくのを確認して、インテグラは懐からシガーケースを取り出して中の葉巻を取り出し、カット済みの吸い口を咥えてオイルジッポに火を点した。
一口吸った瞬間に部隊長の叫び声が届いた。

「局長!!」

顔を上げた視線の先に、バリケードを突破した一匹の屍食鬼が居た。
飛び掛ってくる屍食鬼に、咄嗟に脇下のホルスターから抜いたシグを向けたが。
―――――しまった!!安全装置を・・・
最近になってPPKから持ち替えたばかりのP228にまだ不慣れだったせいかもしれない。
瞬時の判断で撃つのを諦めて銃で叩き落そうとしたインテグラの前で、屍食鬼は一旦着地したもののいったい何を考えたのかまた跳躍してインテグラの頭上を飛び越えた。その間に安全装置を外して銃口を屍食鬼に向けながら体ごと振る。その視線の先に飛び込んできたものに驚いて、口に銜えていた葉巻を落とした。

「きゃあっ!!」

屍食鬼の着地点に居た人物はそいつに覆い被さられて地面に倒れこんだ。すぐにインテグラの放った銃弾が屍食鬼の頭部を打ち抜き、砂状の物質に変わって崩れ落ちる。
インテグラは迷わず襲われた人間に駆け寄って抱き起こした。首から肩にかけての肉が食い千切られている。そこから多量の血が流れ出ていた。

「何と言う事だ、リズ。」

それは、インテグラがアーカードに命じて足止めさせたはずのエリザベスだった。

「何故だ、ちゃんと撒いたはずだ。」

インテグラの言葉にリズは薄く笑った。

「・・・新聞屋の・・・情報網を・・・甘く見ないで・・・インテグラ・・・」

しかし特定は出来なかった。リズとマークは二手に分かれ、不幸にもリズがインテグラの居場所を引き当ててしまったのだ。

「あれは・・・なん・・・なの?」

途切れがちな言葉で聞くリズに、インテグラは眉を寄せる。

「屍食鬼だ。吸血鬼に噛まれた者の成れの果て。・・・貴女も間も無くそうなる。」

「グール?・・・バンパイア?・・・私・・・あんなものに・・・なるの?」

「そうなる前に、私は貴女の胸に銀の銃弾を打ち込まなければならない。」

苦渋に満ちたインテグラの声に、リズは自分の措かれている状況を理解したようだった。

「すまない、私のせいだ。私がちゃんと、もっときつく警告しておけば・・・いや、それ以前に私と出会ってさえ居なければ。」

「ちがう・・・わ・・・インテグラ・・・あなたの・・・せいじゃ・・・ない・・・ そんな・・・ことを・・・いわ・・・ないで・・・わるい・・・のは・・・わたし・・・」

突き放そうとして出来ないインテグラに付け込んで、友人だからという特権を振りかざして踏み込んではいけない領域にまで入り込んだ自分が一番悪いのだ。
リズの手が上がり、インテグラの頬に触れる。

「ごめんね・・・インテグラ・・・あなたを・・・なかせる・・・つもりは・・・ なかった・・・の」

言われて初めて、インテグラは自分の頬が濡れているのに気付いた。

「・・・そうだった・・・のね・・・あなたなら・・・インテグラを・・・ ひとりに・・・ひとりぼっちに・・・しないわね・・・」

リズの視線が自分に向けられていないのに気付いてインテグラはその先を見る。そこに立つ男の正体を、生と死、人と化け物の狭間に居るリズは悟ったのだろう。

「ねえ・・・あなた・・・わたしを・・・けして・・・くれる?・・・だって・・・ ともだちに・・・そんな・・・ひどいこと・・・たのめない・・・もの・・・」

「リズ!!」

アーカードは無言で二人の傍へ歩み寄り、白銀の銃を抜く。
彼がここに居ると言うことは、本体である吸血鬼は彼が始末したのだろう。その下僕のまた下僕になろうとしているリズは放って置いても屍食鬼になると同時に塵になる。だから撃つ必要性は無かった。アーカードが何故リズのその願いを聞き届ける気になったのかはインテグラには分からない。
インテグラはアーカードを見上げ、ゆっくりとリズを地面へと横たえた。

「さよなら・・・インテグラ・・・」

目を閉じたリズの胸が銃弾に破壊される。無くなってしまった心臓の部分を除けばそれは、れっきとした人間の亡き骸だった。リズは人のまま死ねたのだ。

「私が人間の事を嫌いにならずにいれたのは、きっと貴女のおかげだ。」

人の嫌な面はたくさん目にしてきた。学生時代に多くの人と交流出来たり楽しく過ごした思い出が無ければ人間自体に嫌気が差して居ただろうと思う。
父を亡くし、叔父を殺して当主になったインテグラは大義と家の為・・・それは自分の為と同意義だ・・・だけに化け物どもを屠る者になっていただろう。それは入れ物がヒトというだけの、退治するべき化け物と何ら変わらないモノ。いや、きっと今ごろ入れ物すらヒトで無くなって居たかも知れない。

「護りたかったんだ、貴女たちを。」

リズや、学生時代の短い期間だったけど一緒に過ごした友人たち。その家族そのまた友人。それら全てを護りたかった。彼女たちのくれた思い出という宝がインテグラをヒトで居させてくれたのだから。
インテグラは眼鏡を外して手で顔を拭う。

「アーカード、彼女を車に乗せてやってくれ。」

下僕に命じたインテグラの顔に涙の痕は無い。その表情は化け物を使役しながら人であり続ける事を自分に科した者の、厳しくも尊いものだった。



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