◆交響曲第一番―symphonyNo1―


 どんよりとした雲の下、ヘルシング機関の野外演習場では午後の訓練が行われていた。それを腕組みして見ていたインテグラの元に身辺警護のネッドが歩み寄る。ネッドと共にその場からインテグラが立ち去るのを、そ知らぬふりをしながらも演習に勤しんでいた隊員たちは、心の内でほっと胸を撫で下ろしつつ演習を続けた。
ネッドに呼ばれ足早に演習場の司令塔に入ったインテグラは、怪訝な表情で受話器を取り点滅する外線ボタンを押した。

「今からですか?いえ、結構ですよ。」

一言二言話して受話器を戻し、すぐに内線ボタンを押して執事に指示を伝える。

「ウォルター、今からペンウッド卿が来るそうだ。」

少し驚いた風に執事が応じ、インテグラが電話を切るのを待って内線を切る。
とりあえずインテグラに出来ることは今これだけだ。
こちらからは頻繁に押しかけているが、円卓が招集された訳でも無いのにペンウッドが自ら来るとは珍しい。さて、近頃なにか無理難題を突き付けたつもりは無いが、そもそも苦情を言いに来るような御仁でも無い。
考えても仕方が無いとインテグラは頭を切り替える。
―――――あの馬鹿が狼藉を働かないように一言釘を刺しておくか。
自分が言うのも烏滸がましいが、なぜ円卓に要るのか首を傾げるほど臆病な人だ。あれが急に現れたのを見て卒倒でもされたら困る。
そのまま演習塔から屋敷へと戻り、階段を降りて地下の廊下を最奥へと向かった。彼女が解き放ってしまったヘルシング家の虜囚のもとへと。突き当たりのドアを開くと中は闇。廊下から射した人工的な灯りに闇よりもなお黒い、大きな棺が浮かび上がる。虜囚はまだお休みのようだ。
つかつかと棺に寄り拳で蓋を乱暴に叩く。

「おい、起きろ。」

インテグラの声に暫らくして棺の蓋がゆっくりと持ち上がり、中の死人がのっそりと上体を起こした。

「何だ主、まだ化物が出歩くような時間ではないだろう。」

「そうとも、だから出歩かれる前に言いに来たんじゃないか。」

腕組みして見下ろす女主人は、従僕に向かって顔を顰めた。

「そう顰め面ばかりしていると皺が増えるぞ。」

余計なことを言わずにおけない性分の男に、さらに深く皺を刻み込んだが、ここでこの男と問答をしている暇は無い。

「今からペンウッド卿が見えられる。」

「ほう、それで?」

ペンウッドの名を出した途端、面白がるような表情を見せた男に、釘を刺しに来たのは返って失敗だったかと思う。

「余計な事をするなよ。」

この男の価値基準は戦闘能力に順ずるので社会的な地位などは全く眼中に無いのだ。だから円卓会議のメンバーに失礼を働くことは彼にとって禁忌でも何でも無い。それだけならさして問題もないのだが、どうもペンウッドの臆病さを面白がっている節がある。

「なぜ私が余計な事をすると?」

「そんな事は私の知ったことか。お前の思考など分かるはずも無いだろう。」

しかし、不安の芽は取り除いておくに越したことは無い。

「余計な事をしなければ何か良いことがあるのか?」

などと言われてインテグラは一瞬、その代償とやらを考えてみてはたと気付いた。

「なぜこんな事に交換条件が付くんだ。主人の命令だぞこれは。」

「それでは約束は出来んな。」

そう言った再び棺に横になろうとした男にインテグラは焦る。だからここでこいつと問答している暇など無いのだ。

「ちょっと待て、分かった。条件を言って見ろ。」

食い下がるインテグラに、男は不気味な笑みを深く刻む。

「私は犬だからな、ご主人様が遊んでくれるのが一番嬉しい。」

確かに犬らしいご褒美だがこの男に言われると何やら嫌な感じだ。

「遊ぶって駆けっことかフリスビーとかか?」

「つまらん冗談を言うな。」

「つまらん冗談を言っているのはお前だろう。」

しばし無言で睨み合い、先に白旗を上げたのはインテグラの方だった。

「分かった。出来る範囲で聞いてやるから大人しくしててくれ。」

「了解した、主殿。」

わざとらしく胸に手を当てお辞儀をした下僕に何か言ってやりたかったが我慢した。何だか釈然としないままインテグラは踵を返し地下を後にする。
自室に戻り、屋外で埃にまみれた衣服を着替えて執務室へと足を向けた。ペンウッドが来るまでに少し仕事を片付けられるだろう。



 「わざわざお越し頂いて有り難うございました。」

「う、うん、いや、どうという事はないよ。」

応接室を出て玄関へと送る途中の廊下での、インテグラの殊勝な口ぶりに動揺した風にペンウッドは口ごもった。インテグラが殊勝だろうとそうでなかろうといつもなのだが。つい意地悪な事を言ってしまう気持ちになるから、インテグラにもアーカードを怒る権利はないかもしれない。

「あ、そう言えば少しお願いがありました。」

「ちょ、ちょっと、この前弾薬を融通したばかりじゃない。」

「そうでしたか?」

焦るペンウッドを見て少し楽しい。

「全く、君もアーサーも僕に無理難題ばかり・・・アーサーなんてね、しょっちゅうあっち行くからハリアー出せこっち行くからハリアー出せって、ハリアーってそう簡単に飛ばせないんだよ?分かる?」

「ハリアー、ですか?」

「そうだよ、もういい加減自分で買って!って何度も言ったのに結局買わなかったんだ。」

そんな愚痴を聞いていたらエントランスに着いた。ポーチ前に止まっていた車から運転手が降りてきて後部座席のドアを開ける。

「お願い事は又しに参りますよ。」

「もう!来なくていいから!」

笑顔で言ったインテグラに言い返しながら車に乗り込んだペンウッドを見送って、いつのまにやら背後に控えた執事を促して執務室へと戻る。

「お嬢様、応接間へお忘れでございましたよ。」

そう言って差し出された封筒を見て、インテグラは眉間にまた皺を刻んだ。

「入隊希望者でございますか?」

応接間のテーブルの上に中身を出していたから見たのだろう執事に「そんなもんだ」と言って渋々受け取る。執事は少しだけ怪訝そうな表情をしたが追及はしなかった。
今日ペンウッドが訪れた要件は二つ、一つはヘルシング機関の仕事に関することだった。
もう一つは、アイランズから持たされたと言うその封筒の中身。
以前からアイランズは何かにつけ、インテグラに伴侶を持つ事を進めた。最近、特にその傾向にあるのはインテグラがもうすぐ成人を迎えるからだろうか。
―――――どちらも厄介な案件だな。
会ってみるだけでもと勧められては断る理由を考えるのも毎度ひと苦労だ。
―――――ああ、面倒くさい。
いずれは跡継ぎを残さなければならないことは十分承知の上だが、今はとにかく仕事の事で頭がいっぱいなのだ。だがそれを言うと「伴侶を持ったほうが仕事にもプラスになる」と言われてしまう。意味が分からない。
―――――私が神の前で永遠の愛を誓うのか?お笑い種だ。
自嘲気味に笑んだインテグラに執事がまた怪訝な顔をする。それに気付いて笑いを引っ込めた。

「最近、ニュースで騒がれている連続少年失踪事件は知っているな?」

「はい、かなりの広範囲で起こっていた為に個々の事件として処理されており、最近になって関連性が疑われ騒がれ始めた事件ですな。行方不明になっているのが容姿の整った17・8前後の少年である事も巷を騒がせているようで。」

「どうもそれに吸血鬼が絡んでいるらしくてな。先日、親玉の分からない屍食鬼を数体処理しただろう?あれと繋がっているようだ。」

「そういえば確かに17・8前後の少年でしたな。」

「うちが親玉を見付ける前にまさかペンウッド卿から情報を貰うとはね。」

彼も円卓の一員なのだから軽んじるべきではないのだろうが、いや、ペンウッドでなくても先に情報を掴まれた事はインテグラにとって敗北にも等しい。

「不明者のリストと不明になった場所などの資料は提供してもらった。親玉の潜伏しそうな場所を当たってくれ。」

「承知いたしました。」

悔しくて今夜は眠れないかもしれない。
自室に戻るとまずシャワールームに入って水を頭から浴びた。先にこちらが気付いて情報を要請したのなら、情報を提供される事に何の感慨もない。だが、こちらが気付くことも出来なかったという事がインテグラを苛つかせていた。ヘルシング機関はヤードとは違う。護るのはロンドンだけではなくイギリス全土だ。自分はそれを失念してはいなかったか。
体が冷えきって肌が粟立ってきたので、舌打ちをして水を止める。考え無しにこんな事をして寝込みでもしたら、さらに自己嫌悪に追い討ちをかけそうだ。
髪がほつれるのも構わず乱暴に拭いてナイトドレスに着替えたが、ベッドに入らず自室を出た。
足を向けた先は当主の書斎。
ドアを開けると古いインクの香りと、それから亡き父が好んで吸っていた葉巻の匂いがした。
当主の書斎は父が亡き今インテグラのものとなったが、未だにあまりいじくりまわそうという気が起こらない。ここに来ると父が亡くなった日がつい昨日の事のようでもあり、もう遠い昔の事のようにも思える。
オークの机の引き出しの中には、まだ父の吸っていた葉巻が残っている。インテグラは葉巻の煙が嫌いで、葉巻を吸っている時の父には寄り付かなかったが、今となってはその煙の香りすらも懐かしい。
マッチ箱からマッチを取り出して擦ってみると、マッチは湿気ていないようで簡単に火が点いた。その火を葉巻に移そうとしたが上手く点かないうちにマッチは消えてしまった。
もう一度挑戦してみて、また失敗。
思い切って今度は葉巻に口を付け、吸い込みながら火を点けて見た。激しく咽たがしかし葉巻に火を点すのには成功した。止まらない咳に涙目になりながらも、葉巻の先から立ち上る懐かしい匂いにインテグラは満足する。
もう一度口を付けようとした時に、頭上から生えてきた手に葉巻を取り上げられた。それを見上げ、舌打ちする。
赤いコートを纏った大柄な男。紙のように真っ白な顔の上には今日は帽子もサングラスも無い。それにしてもなぜこの男はこうも忌々しいタイミングで現れてくれるのだろうか。
せっかく、思い出に浸っていたのに。

「返せ。」

「子供の吸うものじゃない。」

ただでさえ不機嫌なインテグラはすぐに激昂する。

「子供じゃない、もうすぐ二十歳だ。良いから返せ!!」

振り返りざま、取り返そうと振り上げられたインテグラの手は難なくかわされた。

「それでは女の吸うものじゃない。とでも言い換えるか。」

今、インテグラが最も言われたくない言葉だった。

「女だからなんだと言うんだ!!」

女のくせに女なんかに女に出来るはずが無いと散々言われ続けた。 揺らいでいる時に下僕までがなぜそんな事を言うのか。

「女だろうと何だろうと私が主人だ。それを返せっ!!」

「なぜ泣く。」

目の前の化け物が珍しく困惑した様子で言った。頬を伝う感触にはっとする。
怒って泣いて、これでは子供だ女だと言われても仕方ないではないか。
アーカードは葉巻を握り潰し床に捨てると、自己嫌悪のあまり黙りこんでしまったインテグラをこれ幸いと横様に抱き上げる。

「おい・・・」

「大人しくしていたご褒美を貰おうと思ってな。」

「自分が落ち込んでいる時に何でお前の機嫌取りなんぞ私がしなきゃならんのだ。」

「落ち込んでいる事などすぐ忘れる。」

下目使いににやりと笑った男の意を察してインテグラの顔が朱を刷く。

「ちょっと待て。」

「待たん。」

狼狽するインテグラを裏切るように、書斎のドアがひとりでに開く。

「嫌だ離せっ」

アーカードの腕の中でもがいたが、やはり全く効果は無さそうだ。

「廊下で押し倒されたくなかったら大人しくしろ。私は別にどこででも構わんが。」

さらりと恐ろしいことを言われてインテグラはぴたりと動きを止めた。こいつは本当に、やると言ったらやる。そうこうしている内に、やはりひとりでに開いたドアをくぐって化け物はインテグラの部屋へと足を踏み入れる。
ベッドに落とされ、逃げようと跳ね起きる前に押さえ込まれて口付けられた。
冷たく弾力のあるものに口腔内を蹂躙されて、頤から首筋にかけてじんわりと痺れにも似た感覚が沸き起こる。早鐘を打ち始めた心臓が必要以上の酸素を脳に送り込んだせいなのか、それとも口付けが激しくて呼吸がままならないせいなのか、意識が朦朧としてきた。
アーカードにとって接吻ひとつでインテグラを高ぶらせる事などは造作もない事なのかも しれない。

「葉巻などを吸っても、お前の唾液は相変わらず甘いな。」

唇をやっと離した男の言葉に何と言い返したら良いものか。
いっそ「不味い」と言ってもらったほうが余程気が楽と言うものだ。だったらこんな真似はすぐにやめろと言ってやれる。

「まだねんねのお嬢さんにはピロートークは無理なようだな。」

眉を寄せているインテグラに気付いた男は、鼻で笑いながら言ってナイトドレスを引き摺り下ろすと、熟しつつあるふたつの膨らみの片方を揉みしだき、もう片方の膨らみの頂点を彩る小さな果実を指先で捏ねた。
敏感な場所を乱暴に扱われる痛みと、それとは別に湧き上がってくる感覚。それを抑え込もうとインテグラは、無駄と知りつつ男の腕を掴んで握り締めた。
その手がふいに退くと、今度はねっとりと冷たい舌で舐られる。空いた手がインテグラの下腹の小さな下着を下ろしにかかった。懸命に閉じようとする膝に体を割り込ませて、すでに潤みつつある花弁を指でなぞる。

「入れるぞ、お嬢さん。」

いちいち宣言せずともそのような事は分かっているのに、この男はインテグラを煽りたくて仕様が無いのだ。

「嫌。」

「嫌といった風情じゃないぞ、ここは。」

言って、花弁をなぞっていた指でそこを割り開くと、濡れた音がした。
羞恥に褐色の肌を朝焼けの色に染めて、インテグラは目を硬く閉じ顔を背ける。アーカードはほくそ笑み、インテグラの濡れた秘裂に指を挿しいれた。手袋が蜜を吸い、出し入れされる摩擦が痛いほどにインテグラのそこを刺激する。

「今夜は随分と敏感になっているな。」

笑うような男の声。確かに男が少し触れるだけで、全身がそそけ立つ。
最初の波が襲ってくる。

「いいぞ、軽く達っておけ。」

「っく・・・」

びくりと躰を震わせ硬直させる。
躰すらも、自分の思い通りになってくれない。

「まだ余計な事を考える余裕がありそうだな。」

不服そうに言った男が、インテグラに己がものを突き立てる。一気に根元まで押し込んで、呑んだ息を吐く間もなく激しく抽挿しながら花芽を捏ねまわす。否応もなく忘我の淵に立たされ、抑える事も出来なくなった嬌声を上げながらインテグラは幾度となく達した。意識を失うまで。



 寝覚めは悪く無かった。あの男が訪れた翌朝はいつも思わしくない体調も今朝は悪くない。手加減はしてくれたという事か。そう考えるのも些か業腹ではあるのだが、 眠れたのは事実だ。
朝食後のリビングで紅茶を飲みながら、インテグラはウォルターと例の案件について話す。テーブルには地図と、昨日ペンウッドから齎された資料。

「本当に、随分と範囲が広うございますな。」

「どうやら寄宿制の学校に通っていた被害者が多いようで場所も比較的田舎ばかりだな。 それで同一事件として繋がらなかったようだ。」

地図上の赤い丸印を見ながら二人で頷く。

「先日、始末した屍食鬼どもはちょっとした例外であったわけですな。」

「ロンドン郊外だったからな。」

近頃ヘルシング機関に発見されて処理された屍食鬼2体。1体がもう一体を作ったのか、それとも親となる吸血鬼本体が2体作ったのかは定かでは無いが、肝心の親玉である吸血鬼が見つからずに機関でも捜索していたのだ。まさかペンウッドからその吸血鬼に関する指摘を受ける事になろうとは。

「それで、何故この件に吸血鬼が絡んでいると警察側が気付いたので?」

「ああ、それはどうも目撃者が・・・」

「インテグラ様?」

言いかけて突然沈黙したインテグラに、ウォルターが訝しげに問いかける。

「忘れていた、その目撃者がうちに来るんだった。」

ばつが悪そうに眉を顰めてインテグラが嘆息する。

「こちらへでございますか?」

「警察は吸血鬼が絡んだ事件の目撃者なんて危険な者を保護しておくのが嫌らしい。解決するまでウチに保護しろと。」

件の吸血鬼が目撃されていた事に気付いているのかいないのかは分からないが、目撃者が犯人に狙われるのはよくある事だ。目撃者に会えれば直に色々聴くことも出来るだろうし、それを狙って相手が出向いて来てくれればこれほど都合の良い事は無い。そう思ってペンウッドを介して打診されていたのを了承していたのだった。

「それで、その方はいつ?」

ウォルターが聞いたその時、部屋の電話が鳴った。
ここに外部から直接繋がる事は無いので内線電話だ。ウォルターが受話器を取り、二・三言やりとりをして片眉を上げた。

「警察が今のお話の方を連れていらっしゃったそうです。」

「何?」

確かに今日とは言っていたが、人の家に訪問するにはまだ早い時間だ。常識的に考えれば午後からが妥当だと思うが、警察上層部は一刻も早く厄介者をお払い箱にしたかったらしい。
多分、今ここにその厄介者を連れてきている警官たちは自分がどういった事件に関わる者を運んでいるのか、運んできたここがどういった所なのかなどは知らされていないのだろうが。

「いかが致しましょう?」

執事に言われて肩を落とす。それを今から相談しようと思っていたのだ。

「私は応接室の方に移動するからそっちに通してくれ。あと客間の用意を。」

「かしこまりました。」

ウォルターは一礼し、件の人物を出迎える為に部屋を辞す。
一人になったインテグラは思わず頭を抱えて溜め息を吐いた。全く我ながら何故こんな大事な事を忘れていたのか。また自己嫌悪に陥りそうだ。いや、今は落ち込んでいる場合では無い。
そう思って勢い良く立ち上がり、数秒して今しがた立ち上がったソファに尻餅を付くように座り込んだ。
貧血にぼんやりとする頭の焦点を何とか合わせ、都合の悪い事実に思い至ってげんなりする。忌々しげに舌打ちしても状況が変わるわけではない。考えてみれば前回からぴったり28日。気が付いた途端に体が重い。きつくならない内にと自室に戻り痛み止めを口に放り込む。痛みは薬で何とかなるが情緒面が不安だ。我ながら分かってはいてもこの時期は精神的に不安定になってしまう。こんな時は本当に心底、男に生まれるべきだったと思う。
自室を出て応接室に行くと、すでに案内された人物はドアに背を向けた状態でソファに座っていた。ドアの開く音にびくりと振り返り、インテグラを見て不思議そうな顔をする。いつもの事だ。
魔物の殲滅機関のトップが女だというだけで誰もが驚いてくれる。もう慣れた。
執事がワゴンに紅茶を載せて押してきたので、邪魔にならないように部屋に入って奥のソファに座る。客人は当惑気味だ。
金髪碧眼、正しくアングロサクソン系といった目鼻立ちのくっきりとした端正な顔立ち。少年と言うにも青年と表すにも微妙な、18〜9と言った年頃だろうか。

「こちらがヘルシング機関局長、インテグラル様でございます。」

ウォルターが指し示すのを見て客人は「えっ!?」と声を立てた。

「暫らく君を預かる事になったインテグラル・ヘルシングだ。」

つっけんどんな自己紹介に彼は慌ててソファから立ち上がり手を差し出す。

「どっ、どうもっ!!ア、アーサー・プリチャードです。」

「アーサー?」

「え?はい、アーサーです。何か?」

無視された手の持って行き場に困りながら彼、アーサーは応えた。

「いや、何でも無い。こんな所まで連れてこられて困っているだろうが、出来るだけ早く解決するので我慢して欲しい。不便な点や必要なものがあれば彼に言ってくれ。 ウォルター、客間の用意は?」

お茶を出した後、インテグラの後ろに控えていた執事を振り返る。

「出来ております。」

「では案内を。ああ、ゆっくりお茶を飲んでくれてからで良い。」

インテグラの言葉にソファの横に置いてあった鞄を取ろうとするアーサーを制し、立ち上がった。

「申し訳ないが色々込み入っているので失礼する。」

ウォルターに「頼んだぞ」と声を掛け、インテグラは応接室を後にする。5分も居ただろうか。
あまりに冷たかったかと思ったが、つい今しがた到着したばかりの彼に目撃した恐怖体験・・・だろう多分・・・の事を聴取するわけにもいかないし、またそれはインテグラの仕事ではない。それにとても他人に気を使える気分でも無かった。
執務室に行きデスクチェアに座る。いつもならここに来ればやる気になるものなのだが、どうにも気分が下降気味だ。大きな溜め息をひとつ吐き、ペンを取り出したところに執事がやってきた。

「彼は?」

「一通りご案内いたしまして今はお部屋に。今日はゆっくりして頂いたほうが宜しいかと。」

「そうだな、一刻も早く敵を見つけ出して始末したい所だが・・・」

今回の事件の被害者と吸血鬼の被害者がイコールなら、かなりの被害者数だ。それはつまりヘルシング機関の落度だと言える。

「それにしても驚きましたな、まさか旦那様と同じファーストネームとは。」

インテグラは執事の言葉に書類を選別しかけた手を止めた。

「この国では珍しい名前では無いからな。それよりも円卓の一員でありながら父にあの名をつけたお祖父様たちの気の方が知れない。」

その血を確実に受け継いでいる少女の言葉に「確かに」とウォルターは苦笑する。

「お嬢様も本日はごゆっくりなされてはいかがでしょう?」

ウォルターの言葉にインテグラは片眉を上げた。彼は伊達に生まれた時から彼女の傍に居るわけではないのだ。インテグラの不調など先刻承知という事だろう。

「薬は飲んだ。」

「ご無理をなされても仕事の能率はあがりませんぞ。」

インテグラは不承不承といったていでペンを置く。確かに書類の字面を視線で追っていても、頭がほとんど動いていない自覚はある。こんな事をしていてもミスをするだけだろう。

「分かった、書類は夜やるから置いといてくれ。」

彼女なりのギリギリの妥協案を示し席を立つ。
今日の仕事を明日に持ち越す信条的に許せない。そして、病気でもないのに昼間からベッドに入る事など出来ない性質だ。また演習場にでも行くかと廊下を歩いている途中、ふと中庭に出たくなった。ガーデンチェアに座って庭を眺めていると、小さな噴水の水やよく手入れされた芝が陽光を跳ね返して眩しい。それに目を細め、ガーデンテーブルに頬杖をついてぼんやりとする。普段ならぼんやりなんて何かをしなくてはという焦燥感にかられて出来ないのだが、まるで血液の流れが遅くなったかのように動きの悪い頭はそれを甘受した。
どれくらいそうしていただろうか。
視線を感じてゆっくりとそちら目を向けると彼が立っていた。狼狽した表情でアーサーは 「こんにちは」と至極当然のような間の抜けたような挨拶をした。

「何か用か?」

陽光の温かみを消し去るような冷たい問いに、彼はしどろもどろになって答える。

「い・・・いや、じゃない。いいえ、別に用事は。ただその・・・見掛けたんで・・・」

ふぅんと興味なさ気に視線を噴水に戻したインテグラの傍に寄り、アーサーは訊ね返した。

「ここ、良いかな?・・・じゃなくて、良いですか?」

アーサーはおずおずとながらインテグラとガーデンテーブルを挟んだ向かいの椅子を示す。 どうやら意外とめげない性格らしい。

「どうぞ。」

と視線も向けずに応える。鬱陶しいと言うのが本音だが、駄目だと言う理由も無い。
さらさらと噴水の流れる音と、時おり芝の上を行く風の音だけが二人を包む。沈黙に耐え切れずに口を開いたのはもちろんアーサーだった。

「えっと、君は・・・じゃない、貴女は・・・」

「敬語が使いにくければ普通に喋って構わないぞ。」

アーサーの言葉を断ち切るようにインテグラが言う。相手を思いやってというよりは自分の方が苛々するからだ。 そんなインテグラの本音は知らずにアーサーは得たりと笑顔になる。

「じゃあお言葉に甘えて。」

順応も早いらしい。

「ここは吸血鬼を退治する機関なんだよね?」

許したとは言え突然に馴れ馴れしくなった口調に多少の不快感を持ちつつも、それを表情には出さずに「そうだが?」と言った後に、

「吸血鬼だけとは限らないが。」

と付け足して「だから何だ?」と言外に含ませた。そんな無愛想なインテグラの声もアーサーは一向に気にならないようだった。

「頻繁に吸血鬼を見ているわけだよね?怖くないの?」

頻繁にと言うよりほぼ毎日顔を突き合わせているのだが、別に彼はそういう事を言っているのではないのだろう。アーカードの存在を知らないわけなのだから。

「猫がネズミを怖がるか?」

「え?」

「奴らは獲物だ、見付けて始末するだけ。なぜ怖いなどと思う?」

相変わらず視線を噴水に向けたままのインテグラの応えに、アーサーは自分を含む多くの人々と目の前の女性の認識の違いに驚く。普通は人が吸血鬼にとっての獲物であるという考えが一般的では無いだろうか。それも彼女のような女性こそ吸血鬼の極上の獲物なのではないかと考えて、アーサーはあの夜の恐怖を思い出した。
突然黙りこくったアーサーを不審に思ってインテグラが視線を向けると、酷く青ざめて血の気の引いた顔色の彼が居た。

「どうした?」

「いや、忘れよう忘れようとずっと頭から追い出してたんだけど、思い出してしまって・・・」

手の震えがはっきりと見て取れた。

「お前が見た吸血鬼の事か?」

インテグラの質問に返事は無く、ただ頷くばかり。
さっきまでぺらぺらと喋っていた人間と同一人物とは思えないほど、彼の口は途端に重くなってしまっていた。
これはカウンセラーも用意しておくべきだろうかと、インテグラはこっそり溜め息を吐いた。

「安心しろ、君が見た化け物は私たちが必ず始末する。」

言って立ち上がったインテグラを見てアーサーも跳ね上がるように立ち上がる。何処に?と目が訊ねている。

「仕事だ、事務的なことは昼間の内にやっておかないといけないからな。と、もうこんな時間か。」

腕時計を見たインテグラが眉を寄せる。ふたつの針は頂点で重なろうとしていた。

「お嬢様、お食事の準備が整っておりますが。」

どうやって自分を見つけたのか、絶妙のタイミングで現れたウォルターはさすがと言うべきだろうか。

「分かった。」

立ち上がり屋敷のほうへと戻るインテグラに、アーサーはついて行って良いものかと戸惑いがちな風だ。

「何だ、食べないのか?」

振り返り、言ってくれたインテグラにほっとして歩を進める。お金はあるが身分は決して高く無い家の出の彼は、貴族の女性と食卓を共にして無礼になりはしないかと悩んだのだが、杞憂だったようだ。
ダイニングに入ると、中世を舞台にする映画などに出てくるような細長い食卓に二人分の食事が用意されていた。長い方の辺を挟んだ二人の距離は遠い。
彼女はいつも、一人でこの食卓につくのだろうか。寂しくは無いのだろうか。
寮生活をしていた彼には考えられないほど静かな食卓。色々聞いて見たい気はしたが、声を上げるのも何やら憚られる。
そう考えながらも出された食事を口に入れ、あまりの美味しさに感想を言おうと目を輝かせてインテグラの方を見たアーサーは、その瞬間大きな音を立てて座っていた椅子を倒し、物凄い速さで後退って背後の壁に阻まれた。驚いてそれを見ていたインテグラの背後から声がする。

「何だこいつは。」

それだけで事の顛末を察してインテグラは大きな溜め息を吐いた。
床からか壁からか人が・・・人じゃないが・・・生えてきたら普通の人間は驚くだろう。 それもデカイし、格好は明らかに胡散臭いことこの上ない。

「真昼間からうろつくな。」

「屋敷内に妙な気配があるから出てきたまでだ。」

―――――妙な気配?
アーサーの事だろうか。
―――――全く、こいつには超音波でも付いているのか?
ああ、そうか、蝙蝠だから超音波くらい当然持っているか。
と自己完結してインテグラは思わず吹き出す。何だ?と怪訝そうに見る下僕に何でもないと誤魔化す様に咳払い。

「今回の事件の重要参考人だ。間違っても危害など加えてくれるなよ。」

「時と場合による。」

「アーカード!!」

「何、お前が気を付けていれば良いだけの事だ。」

「?」

意味が分からない。どういう時と場合に彼を害しようというのだろう。それもインテグラに気を付けろとは。相変わらず訳の分からない奴だ。

「もう良いから消えてろ。」

追い払うように手を振り、アーカードが消え失せるのを待たずに固まっているアーサーへ向き直る。

「驚かせてすまないな。あれはうちの局員で、まあ見ての通り人間じゃ無いが人に危害は加えないから・・・」

多分。という語尾に付けるべき言葉は呑み込んだ。局員というのとはちょっと違うかもしれないが、簡単に言うとそういう事になるだろう。
やはりカウンセラーを用意しておくようにウォルターに言っておかなければ。何だか酷く疲れた気分でインテグラはその日の昼食を終えた。



 夜、宣言通りに書類の整理を済ませたインテグラは自室に現れた下僕を見て眉間に皴を寄せた。

「何故私を見るとそのような顔をするのだ。」

いかにも心外そうに男は言うが、自分の普段の行動をよく思いおこせと言ってやりたい。

「あのな、どうせお前には分かってるだろうが今日は不浄だ。」

当然のように腰を抱きに来た男に言ってやる。血の匂いはこの男の鼻に届いているはずだ。

「私はそんな事は別に気にせんぞ。」

「馬鹿っ!私が気にするわ。」

降りてきた唇を手の平で遮り顔を背ける。

「何故?」

「何故って、」

こいつは人間じゃないからデリカシーも無いのだろうか。それとも人間だった頃からデリカシーが無いのか。
文句を言ってやろうとしたが躰を弄られて、出そうになる声を我慢するために口を固く噤む。陥落しそうになる直前、アーカードの手の動きが止まった。
頬に風を感じてインテグラは振り返る。

「あら、物凄く美味しそうな匂いがすると思ったら、先客が居たわ。」

開け放たれたテラスに面した窓の前に女。長い漆黒の髪と真珠のような白い肌。紫色のドレスを着た貴婦人は、それに似つかわしく無い邪悪な血色の瞳を細めた。

「邪魔はしないから続けて頂戴。わたくし女は食べないの。」

にんまりと笑った口には大きな犬歯。それを見たインテグラも笑う。
―――――こいつだ。
女は眉を顰めた。今しも同胞に食われかけている女がなぜ自分を見て笑うのかと思ったのだろう。

「お前だな、多くの少年たちを連れ去った犯人は。」

吸血鬼という奴はどいつもこいつも変質的だ。
女は初めて身構えた。インテグラはなお笑みを深く刻む。

「田舎者が、ここが何処だか知らずに来たらしい。ようこそヘルシングへ、礼を言う。思いのほか仕事が早く片付きそうだ。」

下僕の名を呼ぶ。それから先は、この男には言わなくても分かっているはずだ。

「ヘルシングですって!?」

「名前だけは知っていてくれたようで光栄だ。」

体を横にずらして、アーカードと女の間を空けた。
アーカードは懐から取り出した白銀の銃身を女に向ける。身を翻してテラスから飛び降りようとした女の、後頭部から眉間を銃弾が通過する。
女は空中で文字通り霧散した。

「こんなに早く終わるとは本当に助かった。明日から苛々せずにすむ。」

全くだ、と思いつつも同意の意は表さずにアーカードはインテグラを抱き上げる。

「ちょっ・・・」

「つづきだ。」

「ええっ!?」

インテグラをベッドに下ろし、抵抗を塞ぐために両手首をひとまとめに頭上に縫い止める。

「鬼っ!悪魔っ!!変態っ!!!人でなしーっ!!!!」

「何を当たり前の事を。」

アーカードはにやりと笑い、喧しい主の唇を封じた。



 カウンセラーが行ったアーサーの調書を読みながら、インテグラは眼鏡を押し上げた。
どうやら件の吸血鬼と昨夜アーカードが始末した吸血鬼は同一と考えてほぼ間違いない。書類に目を落としたままのインテグラに、執事が聞こえるように溜め息を吐く。

「お嬢様の部屋から銃声が聞こえた時には肝が冷えましたぞ。」

「たまたま奴が居てくれたから始末させたがな。囮としても期待して彼を預かったのだから、私も警戒はしていたさ。」

ウォルターが眉を顰めたのにも気付かない。

「彼はどうしますか?」

「もう暫らくは保護していた方が良いと思う。」

「そうでございますな。」

初めて顔を上げたインテグラにウォルターは険のある笑顔を向けたが、ついぞ主人が気付くことは無かった。

「そういえば、アーサーの家族にはいったい何て説明してるんだ?」

「連続殺人犯に狙われているという事にしておいたのでは無いかと。」

「ふむ、まあ妥当なとこだろうな。」

という事は家族は警察に保護されているものと思っているのだろう。出来るだけ早く帰してやらねば。
問題は行方不明者がまだ数名見付かっていない事だ。

「17、8・・・9・・・か。」

インテグラは独りごちる。普通なら屍食鬼になっている確立の方が高いが、何せ行方不明になった少年たちは寄宿舎生活をしていたのだ。死体か、動く死体か、それも意思があるかないかの3択になってくる。行方不明者の家族には悪いが死体で見つかってくれるのが最も有難い。が、屍食鬼だと検知し易いのは確かだ。あの女吸血鬼が繁殖をしていたとしたら、こんな所にまでアーサーを追ってきた執着心の強い吸血鬼だ、きっと従属に血を飲ませて手放したりしない。もしその意思を受けている吸血鬼が居るという事になると最悪だ。傾向として吸血鬼は異性を好むが、女吸血鬼の意思によってまたアーサーが狙われないとも限らない。

「面倒なことになったな。」

すぐに殺させなければ良かったと、自分の浅はかさに舌打ちする。
それとも「食え」と言えば良かったのか。後悔しても霧散してしまっていてはもうどうしようもない。
つい、敵を屠った後の男の、激しい情交を思い出して頭を振る。忌々しいという他無い。
眉間の皺を指で押さえたときにノックの音が響いた。執事はここに居るから局員の誰かか。

「入れ。」

短く言うと、小さくドアが隙間を開けた。怪訝に思って見ると隙間からアーサーが顔を覗かせる。

「ご、ごめん仕事中だよね。」

確かにそうなので普段なら叱責するところだが、色々考えていて気の毒になってきていたところだった。

「何か用か?」

「お願いがあるんだけど・・・」

相変わらずドアの隙間から除くアーサーに「とにかく入れ」と促して、デスクの前まで来させる。

「頼みとは?ウォルターに何でも言えと言って置いた筈だが。」

「実はもうすぐママの誕生日なんだ。それで、一緒に買い物に行って欲しいんだけど・・・」

「それならばイザベラにでも、」

アーサーの言葉に応えかけた執事をインテグラは手を挙げて制止する。
最悪の場合吸血鬼に狙われる可能性もあるアーサーにイザベラを同行させるわけにはいかない。ならば買い物など以ての外ではあるが、ずっとこの屋敷に閉じ込めているのも可哀想だ。

「いいだろう、ソーホーあたりで良いか?」

「お嬢様!」

「天気もいいし、今からどうだ?」

執事の強めの呟きを無視して話を進める。アーサーが嬉しそうにこくこくと何度も頷いた。

「決まりだ、先に玄関に行って待っていてくれ。」

インテグラの言葉にアーサーは小躍りしそうな勢いで部屋を出て行き、後には眉間に皺を刻み込んだ執事とインテグラが残された。

「お嬢様。」

「分かってる。分かってるが、うちの落ち度だろう。」

「今回の件に気付けなかったのはお嬢様のせいではございません。」

「だがそれでも、吸血鬼が関わっていて彼が英国民である以上うちの責任だ。」

他ならぬ自分がそう思っているからそうなのだ。

「気晴らし程度にぶらついて、すぐ帰ってくるさ。」

相も変わらず頑固者の主人に、執事は諦めたように肩をすくめた。

「お買い物はハロッズかリバティになさいませ。」



 自分は本当に馬鹿なんじゃなかろうかと真剣に思うときがある。今が正にそれだ。
幸いにと言ってよいのか、思考は自由だったので今後の対応を考えるためにおさらいをしてみる。
車でリバティの前に辿り着き、歩道に立って車を見送って次の車を待った。後からボディガードのネッドとハンクの乗った車が来るはずだったからだ。しかし自分たちの車のすぐ後ろを走っていた古いセダンが止まってドアが開いて、そう、背中を押された。思い切りだ。車の後部座席に押し込まれると同時に横腹に激痛が走って体の自由が利かなくなった。スタンガンでこうなるとは聞いた事が無い。そもそも殺傷能力の無い武器には興味が無いので知識もそれほど無いが。
―――――心臓やなんかの筋肉には影響せずに運動機能だけ不能にさせる機械があるとは聞いた事があるな。
動けなくなったところで意識はあるから、すぐ横にアーサーが自ら車に乗ったのも見てたし、目隠しと猿轡をされた上に指一本動かせない体を拘束されたのも分かる。要するに、拉致されたわけだ。
後ろから来ていた筈のネッドとハンクが気付いてくれていれば良いが、運転が落ち着いているから見逃されたと考えるのが妥当だろう。すぐに異常には気付いてくれただろうが、さてどうしたものか。脇の下のシグも取られたようだし、体が動くようになるのは30分後か1時間後か。

「よくやったね、アーサー。」

聞いた事の無い声だ。その言葉に返事は無い。

「レヴィ、僕もう堪らないよ。」

「駄目だよアイオン、まずはクリスの元に戻らないとね。」

名前を出して会話をするとは浅はかにも程があるが、コードネームという事も。いや、それは無さそうだ。
そう思うくらいに彼らの声は浮ついていて、深い思慮を感じさせなかった。
登場人物はアーサーを除いて3人。インテグラは心の中でほくそ笑む。
―――――不明の少年たちと同じ人数だ。
それにしても先ほどから生臭い匂いが酷く不快だ。意思を持って行動してはいるようだから吸血鬼化しているのだろう。
しかしアーサーが吸血鬼になっていたのだとしたら、アーカードが気付いても良さそうなものだが。
車が止まり、人目を気にするようにして降ろされた。
体内時計で25分と言ったところだ。グレートマルボローストリートから込み具合にもよるが移動距離は直線距離で15kmくらいだろうか。インテグラは頭の中で地図に円を描く。北ならサウスゲート、東ならバーキング、南にクロイドン、西にならブレントフォードと言ったあたりか。
抱きかかえられ、上がった階段と踊り場の感じから3階と判断した。郊外のアパートメントだろうか、住宅地なら西の方の可能性が高い。
体は、まだ動きそうに無い。
どうやら部屋に入ったようだ。固いソファ、いやベッドに下ろされたようだ。

「おかえりみんな。」

また違う声。これがクリスか。

「随分な上玉を連れてきたね。ママは居なくなったけど、思わぬ収穫だ。」

「これで良いだろう?僕を家族のもとへ帰してくれっ」

アーサーの悲痛な声がする。
目隠しが外されて、目の前の赤い瞳と視線があう。可哀想な被害者は今や捕食者となって淫靡な笑みを浮かべていた。

「君、僕らを殺す奴らの親玉なんだって?でも残念だね、今日から君はここで僕らの生餌になるんだよ。」

顎を持ち上げられて首筋をねろりと舐られた。体の自由が利けば蹴りのひとつもくれてやるのに。

「凄く美味しそうだけど首へのキスはしない。君は生餌だからね、心臓から遠いところを毎日じわじわと吸ってあげるよ。僕ら3人でね。」

成る程、アーサーは吸血鬼化しないまでも既にこいつの支配下にあったわけか。

「クリス、アーサーはどうするの?」

「そうだね、アーサーが逃げ出したせいでママは死んだんだし、代わりも手に入れたし、殺しちゃおうか。」

「待ってよ、話が違う・・・」

指が、少し動かせた。シグを持っているのは誰だ。しかし後ろ手に縛られていては。
考えろ。考えろ。自分は獲物などではない。獲物はこいつらだ。

「餓鬼どもが。」

低い低い声と舌打ち。インテグラは床からゆっくりと引き上がって来る、救世主というには憚られる魔物の背中を確認してほっとする。それは自分の殺意。もっとも強力な武器。
相手が何者であるかも分からない半人前の吸血鬼たちは恐慌状態で口々に何事か叫んだ。それに向かって魔物は白銀の銃を構える。
―――――駄目だアーカード!カスールはっ!!
届かないとは思いつつ心の中で叫んだインテグラに、まさか男が不機嫌そうに振り返るとは。

「この期に及んで周りの心配か主。」

その隙をついたつもりだろう。飛び掛ってきた若い吸血鬼・・・レヴィだかアイオンだかのどちらかだ・・・の頭を、カスールを懐に仕舞うところの手と逆の手で掴み、力自慢が林檎でも割るかのように握り潰した。
―――――聞こえてるのか?まさか。

「聞こえん。」

冗談のような事を言って、一瞬にしてもう一人の前に立ったかと思うと胸を一突きした。そのスピードとダメージは大口径の銃に匹敵する。そいつは胸に大穴を開けられて霧散した。

「待てよ。悪かったよ、あんたの獲物には手を出さない。だから見逃してくれ。」

遺されたクリスが後退さる。どうやらやっと自分たちが叶う相手ではないと悟ったようだ。

「残念だったな小僧。」

にいと唇の端を吊り上げ犬歯を見せて笑う男の禍々しさよ。
今度はゆっくりと、恐怖心を煽るように近付いていき、気圧された様に動けなくなったクリスの首を掴んで吊り上げた。

「私の主に触れた者は嬲り殺し決定だ。」

ぐしゃりと鈍い音がして、握り潰されたクリスの片方の足が足首から落ちた。

「心臓から遠いところをじわじわと、だったか?」

潰された足首が再生する前にもう片方が握り潰される。それが再生している間に次は手首。クリスが発したはずの叫びは喉を掴まれているためか蛙の鳴き声のようだった。

「遅い、じわじわにも限度があるぞ。」

楽しそうに男は言い、今度は再生しかかった足の膝を潰す。クリスは口から泡を吹いていたが、気を失うことは出来ないのか目だけがぎょろぎょろと動いた。
―――――いい加減にしろ。
相手が吸血鬼とはいえ胸糞悪さに心の中で呟いたインテグラを、やはり渋面を刻んだ男が振り返る。
ぽとりと首を掴んでいたクリスを落として、男はインテグラの元に歩み寄り、ようやく猿轡を外した。

「一々煩いぞ主。」

やっぱり聞こえてるんじゃないかと思いながら、唇と舌が動くことを確認して声を出してみる。

「もういいから、早く始末をつけろ。」

「元はと言えばお前が私を置いて勝手に出掛けるからだお嬢さん。今夜は覚悟しておけ。」

「なっ・・・」

反論する前に男は踵を返し、逃げようと這いずっていたクリスの元に行き無造作に背中を踏み抜いた。心臓を踏み潰されたクリスはそのままさらさらと霧散する。そのまま男は、隅の方で腰を抜かして床に座り込んだアーサーへ足を向けた。

「アーカード!」

「お前をこんな目に合わせた張本人だ。」

「けれど人だ。私が守るべき人間だ。」

男は暫く足元の少年を見遣り、ふいに興味を無くしたかのようにインテグラの傍に戻ってくる。

「その内に本当に人間とやらに足元を掬われるぞ。」

「その時はその時さ。」

手の戒めも解かれたが、まだ自由に動かせるようになるには時間が掛かりそうだ。
従僕に抱きかかえられたとの時に、ネッドとハンクが飛び込んできた。




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