◆夜想曲―nocturne―


 円卓のメンバーであるバーネット伯爵がヘルシング邸を訪れたのは、庭の木々が色づき吹く風が冷たくなり始めた頃だった。彼とは円卓以外の席ではほとんど顔を合わせた事は無い。当初から彼はインテグラと自分が同列に居る事が面白くないという態度を隠さなかったし、インテグラも財界人という人種があまり好きではなかった。
本当ならば面突き合せたい相手ではなかったが、事前にきちんとアポイントを取られたからには無下にも出来ず、インテグラは儀礼的にエントランスで彼を迎えた。
いつも過剰とも言える自信に満ち溢れた彼の容貌は、それほど親しくも無いインテグラにもひと目で見て分かるほど憔悴していた。

「御機嫌宜しゅうバーネット卿。」

皮肉に聞こえはしないかと思ったが他に言いようが無く挨拶したインテグラに、彼が言った言葉は耳を疑うものでさえあった。

「ああヘルシング卿、忙しいところを時間を割いてもらってすまない。」

いったい何事かと思いつつ応接間に促した。

「どうぞ。」

インテグラの言葉に軽く頷いて応接間に入ろうとしたバーネットは、開かれたドアの前でぎくりと足を止める。訝しく思って彼の肩越しに部屋の中を覗けば、そこには革張りのソファの肘掛に足を乗せて長々と横たわる赤い長身があった。

「アーカード、こんな所で何をしている!!」

叱責する口調の主人を悠然と眺め、男は「昼寝だ」とふざけた返事を返してよこした。

「命じもしないのに昼間からうろつくな。さっさと自分の塒へ戻れ。」

地下への入り口の方向を指さして怒鳴る歳若い主人を赤い目で見返し、男は体を起こすと命令に従ってその方向へと向かった。無論、出入り口を通る事無くだ。
まさに『傍らに人無きが若し』の下僕が姿を消した壁を忌々しい思いで睨みつけ、インテグラは溜め息を押し殺しながらバーネットに向き直った。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ない。部屋を変えましょう。」

「い、いや・・・構わんよ、ここで。」

バーネットがアーカードを見るのは初めての筈だが、あんな出て行き方をすればあれが何者なのかは一目瞭然。しかし吸血鬼が昼寝していた部屋など汚らわしいと怒るだろうと思っていたバーネットは悄然とそう言い、重い足取りで部屋に入る。さすがにアーカードが寝そべっていたソファには座らせられないので、正面の席を薦めると彼は素直に従った。
お茶が運ばれてきてもそれに手を付けようともせず、膝の上で手を組んだまま何かを考えているのか用件を言い出そうとしないバーネットに、インテグラの方から口火を切った。

「何か問題でもありましたか?」

彼の態度からしてインテグラの落ち度が原因で無いようだ。もしそうであれば彼の事だから鬼の首を取ったようにしてやったりな態度でさっさと話を始めただろう。
バーネットは視線を自分の手に落としたまま、神妙な面持ちで口を開いた。

「実は、相談がある。・・・いや、助けて欲しい。」

「私に・・・ですか?」

「娘が居る。」

インテグラの質問に応えるでも無く、唐突とも言える彼の言葉にインテグラには相談の内容がだいたい分かってきた。インテグラを嫌いな彼がインテグラに頼みなど、インテグラでしか対応できない事に違いない。

「3番目の子で、君と同じ年頃の娘なんだが・・・」

自分の娘と同じくらいの小娘に同じ地位でふんぞり返られたらそれは面白くは無いだろう。と別の事を考えながらインテグラは先を促すように頷く。

「ひと月くらい前からずっと体調が思わしくなかったんだが、ここ1週間はとうとうベットから起き上がれなくなった。」

病気の話ならお門違いだと意地悪を言おうとしてインテグラはやめた。彼の握り締められた両手の震えが目に入ってしまったからだ。そこに居るのは居丈高にインテグラを見下す経済界のファクターでは無くただの父親だった。

「医者の見立てでは極度の貧血らしい。」

「私の所にいらっしゃったということは、確信がおありなのですね?」

「首に・・・」

彼は全てを言うことが出来ずに両手で顔を覆った。

「分かりました、明日にでもお屋敷を訪ねさせていただきます。」

ここで娘の不具合の原因が何であるかの議論をしても埒があかない。行ってみて取り越し苦労であればそれで良し、もしインテグラの仕事であればそれを行使するだけの事だ。この際確執などは問題にならない。
本当は今すぐにでも一緒に来て欲しかったのだろうが、明日という約束を渋々承諾したバーネットを送り出して、執事を伴い執務室へと戻る。

「うちの鑑識班をやっても良いんだが、どっちにしろ大事にしたくないから直接来たんだろうからな。私と同じ年頃らしいから見舞いの振りでもして私が行ってみようかと思ってるんだ。」

「しかし、もし本当にバーネット伯のご令嬢が吸血鬼に魅入られておりますと、」

お嬢様お一人では危険です。と執事に言われる前にインテグラは言葉を継いだ。

「もちろん訪問するのに常識的な時間を選ぶつもりだし、その場ですぐに決着をつけようなんて浅はかな真似はしない。」

確認だけが目的で一旦は屋敷に帰るのだと説明しても、執事は些か不満なようだった。

「ところでアーカードの事だが、床や壁を通り抜けているだけでなく唐突に現れるのは、やはり霧か何かになって移動してるのか?」

話を変えることが目的と思われる唐突なインテグラの質問にも、執事は主人の待つ答えを即座に返した。

「そうでございますね。霧、もしくは小動物になって移動しているものと。壁や床を透過するのは無機物と同化出来るからと考えられますな。影に入るのはどうやっているのか定かではありませんが。」

「影?そんなものにも同化出来るのか?」

執事は自分の失言をすぐに悟ったが、それを億尾にも出さずに今度はその話題を変える算段に入った。

「さて、私の勘違いだったやも知れません。それよりお嬢様、やはりお一人での訪問は、」

「うん、だからアーカードを連れて行く。影に入れるんなら丁度良い、あんな見るからに不審な奴をどうやって連れて行こうかと思ってたんだ。あいつに見せれば犯人が病気か吸血鬼かだなんて一発だろう?」

始めの頃はあんな危険物を外に出すなど以ての外、使わないに越した事は無いと言っていたインテグラだったが、最近そんな危機感が薄れてはいないだろうか。あの悪魔がいかにして主人に取り入ったのかと執事はひっそりと眉を顰める。確かに食扶ち分は大いに働いて貰わねば困るが。
主人に聞かせるための溜め息をひとつ、しかし彼女の考えを改めさせる事は早々に諦めた。言い出したら聞かない所は本当に誰かにそっくりだ。

「それにしても、それが本当に吸血鬼の仕業なれば何とも古式ゆかしい吸血鬼ですな。」

その見かけによらず頑固者の少女は、何気に言った執事の言葉に眉を寄せる。

「そう、だな。」

闇が夜を支配していた昔ならいざ知らず、今や夜の闇は人工の灯りによってほとんど駆逐されてしまった。『今時』の夜族は古い夜族のように一人の被害者のもとを何度も訪れるなどといった足の付くような真似はしない。何故なら彼らの根城は鬱蒼と生い茂った森の奥や人の通わない崖っぷちの古城では無く、捕食する相手が作った街であり住居だからだ。足が付けば昼間の間に簡単に駆逐されてしまう。
もしも本当にバーネット伯の令嬢をつけ狙っている吸血鬼が居るのならば、何がしかの強い執着を彼女に持っているのか、それとも余程の力を持った奴なのか。それもかなり古く、強い。
どきりとした。いるじゃないか、最も古くて強いオリジナルが。ひょっとしたら自分はまた。

「お嬢様?」

突然に顔を強張らせたまま黙りこくった主人を、訝しげに気遣う執事の声にインテグラははっとする。

「何でも無い。」

とにかく令嬢に会って見なければ何も始まらない。そう思いながら執事の手前そそくさと書類を開いたが、中々気持ちの切り替えは上手く行かなかった。集中できなければ仕事も早く進むはずが無い。いつものように化け物が起きだして来る時間になっても、インテグラはまだいつもより山積みされた書類と格闘していた。

「これはまた今日は格別に忙しそうだな主。」

馬鹿にされているように感じるのは自分の心持ちのせいだと言い聞かせ、インテグラは努めて平静さを保とうとする。

「今日は、来客があったんだ。」

そんな事は相手も先刻承知の筈だがそう言って、インテグラは先に用事を済ませるべくサインの手を止めて万年筆を置いた。

「明日の午後、いっしょに行って欲しいところがあるんだ。」

「ほう、お供の要請とはこれはまた珍しい。」

男がわざとらしく両肩を竦めたのも少し癇に障ったが、一々こんな事で怒っていてはこいつとは付き合っていられない。

「吸血鬼の被害者と疑わしい人物が居る、それを見て判断して欲しいんだ。」

「プロフェッサーの直系ともあろう者が、そのような事はお手の物では無いのかね。」

切れた。

「一々一々お前何様だ!!主人が付いて来いと言ったら付いて来れば良いんだ!!この駄犬!!」

黒檀のデスクを叩きながら息巻いて立ち上がったインテグラは、男の顔を見て甚だ後悔した。口の端を吊り上げた美貌はインテグラの激昂を面白がっているようにしか見えなかった。従僕の思惑通りの醜態を晒した自分は何と愚かなのだろう。引いていく血と一緒にすとんと椅子に座りなおして唇を噛み締める。このままではいつまで経ってもこの化け物に侮られたままでは無いか。

「大人数で行って人目につくと迷惑になるからお前はボディガード兼用だ。13時には出掛けるからそれまでに起きてこい。」

「Yes.MyMaster」

事務的に言ったインテグラに化け物もそれ以上揶揄せず従った。

「お前、影の中に入れるんだってな。」

「持ち主の許しがあれば。」

その返事はちょっと意外だった。

「動く影も、お前にとっては誰かの領域なのか?」

「その通りだ、お嬢さん。」

「影の持ち主が移動したり、他の大きな影の中に入ったり、途中で光源の無い場所に行ったりしても見失うような事は無い?」

「領域の持ち主が突然消滅しない限りは。」

「お前より小さくても大丈夫?」

「問題ない。」

「ええと、じゃあ、許す。」

「何をだ?」

「だから、私の影に入る事をだ。」

珍しく妙な顔つき・・・としか表現できない・・・をして沈黙した男をインテグラも訝しげに眺める。

「何だ?何か他に問題があるのか?」

「アーサーが言うには『あまり気色の良いものではない』らしいが?」

「そりゃ、化け物が影に入り込むなんて気持ちのいいもんじゃないだろ。」

「そういう意味では無いと思うがね。」

「何なら試しに入ってみろ。」

言って立ち上がったインテグラの影を男の足が踏んだ途端、インテグラは強烈な悪寒に襲われた。
ずぶずぶとインテグラの影がある部分の床に溶け込んで行く男の姿と共鳴するように、全身の皮膚の下をミミズが這い回るような痛いとも痒いとも言い難い感覚が全身を嘗め尽くす。それが長い事続くようならばとても耐えられなかっただろう。ものの数秒で男が姿を消すのと同時に終わった感覚に、それでもインテグラはすぐには立ち直れなかった。何も居ないことを確かめるように袖を肘まで捲くり上げて、総毛立ったブツブツだらけの自分の腕に顔を顰める。

「アーカード、入ったのか?」

『Yes.MyMaster』

洞窟から聞こえてくるかのような声で先ほどと同じ答えを返した化け物の声音は、心なしか笑いを含んでいるようにも聞こえた。
問うまでも無い。その『領域を侵食される気色の悪さ』は今までに感じた事の無いもの。もちろん今まで男が壁や床を通り抜ける際にそんな思いをした事は一度たりとも無い。

「・・・出てきて良いぞ。」

出る時もそんな感じなのかと身構えたインテグラだったが、男の姿が現れる時にはこれといった違和感は無かった。

「如何かね主、影を犯される気分は。」

「変な言い方をするな!!」

下品な男の物言いに赤面して怒鳴ってから、またやってしまったと後悔する。

「と、とにかく明日は早々に起きてきて私の供をする事。分かったな。」

「Yes.MyMaster」

三度目の台詞を唇の端を吊り上げながら言った男に、インテグラは眉尻を吊り上げたのみで我慢した。



 瀟洒な門扉が開く寸前、その鉄柱の間でパチリと走った火花を、車の中から見上げてインテグラは眉を寄せた。見れば両側に続く塀の上にも装飾仕立てにしてはいるが金属の線が延々と引かれている。門と同じで高圧電流が流されているのだろう。見るからに屈強な門番の装備は一見ヘルシング邸のそれよりも重装備だ。屋敷の主はインテグラよりも『敵』が多いらしかった。あくまで人間の、ではあろうが。
エントランスのポーチ前で運転手の開けたドアから車を降りたインテグラを出迎えたのは、バーネット卿ではなく体格の良い壮齢の男性だった。

「いらっしゃいませヘルシング卿。執事のウィリアムと申します、どうぞウィルとお呼び下さい。」

深々と頭を下げながらもすっとした身のこなしは、接客だけではなくそれなりの訓練を受けているようだ。

「大変申し訳ございませんが主は急な仕事が入りまして、ヘルシング卿にはくれぐれも非礼をお詫びするよう申し付かっております。」

要らぬと言ったのをどうしても同席すると言っていた彼だが、さて何やら政変でも起こったか。

「構いません、私はクレアのお見舞いに覗っただけですから。」

「お話しは覗っております。どうぞ、ご案内いたします。」

そう言ったウィルに案内された部屋は、まだ昼の日中だと言うのに閉じられた分厚いカーテンに陽光を遮られ、ひどく薄暗かった。

「明るくしますとお嬢様の容態が悪くなりますので、ご不便でしょうが灯りは点けずこのままでお願いいたします。」

「分かりました。」

頷いて部屋に入り少女の横たわるベッドへと静かに近付くと、インテグラが入ってきた事にも気付かぬように虚空を見つめる彼女に声を掛けた。

「こんにちは、クレア。」

ゆっくりと首を動かして自分へと視線を止めたクレアの反応に、インテグラは少しだけ安堵する。まだ助けられるかもしれない。

「・・・どなた?」

梔子色の豪奢な巻き毛とスミレ色の瞳の、かつてはさぞ愛らしかっただろう少女はもはや骨の上に皮が乗っているだけとしか思えないほど痩せ細っていて、その声は耳を澄ましてようやく聞こえるようなか細いものだった。
ウィルがベッドの傍らに用意した椅子に腰掛け、インテグラはクレアに話し掛ける。

「私は貴女のお父様の友人の娘で、インテグラルと申します。貴女がお加減が悪いと聞いてお見舞いに参りました。」

「そう・・・」

言ったきりクレアは興味を無くしたようにまた虚空へと視線を戻す。父親が父親だからこの手の見舞い客は枚挙に暇が無いのだろう。その首は髪に埋もれてよく見えなかった。

「どなたかを、待っていらっしゃるのですか?」

インテグラの言葉にクレアは視線を泳がせてから、再びインテグラへと顔を向ける。彼女は不思議そうな表情をしてから少し困ったようにインテグラの背後に控えるウィルを一瞬だけちらりと見た。それを見逃さずにインテグラはゆっくりと振り返る。

「ウィリアムさん、お暇する時にはまたお呼びしますのでどうぞお仕事に戻られて下さい。」

声も口調も普通の少女めかして、しかし断固とした視線を向けたインテグラに、ウィルは躊躇するような表情は見せたものの主の客の支持に従った。

「承知致しました。こちらの受話器をお取りくだされば私めに繋がりますので、何なりとお申し付け下さい。」

ドアの近くの電話を示し、もう一度深々と頭を下げて執事は部屋を後にした。

「さあ、お家の方は居なくなりましたよ。内緒話を致しましょう。」

「・・・ええ、そうね・・・そう、ウィルが居ないのなら良いわ・・・」

「どなたをお待ちなのですか?」

「あの方・・・お名前は知らないの。身分違いだからと・・・だから、お父様にも内緒なの。」

相手を思い浮かべてか陶然とした様子で語るクレアにインテグラはひっそりと眉を顰めつつ、彼女の首元を隠す髪を指先でそっと梳き上げた。薄く血管の浮かび上がる白い首筋に紅い点がふたつ。アーカードに問うまでも無く間違いない、吸血鬼の接吻痕だ。

「今夜は、そのお方はいらっしゃるのでしょうか。」

「・・・分からないわ・・・」

捕食者と感応している様子でもない。表情も意識もある。まだ、間に合う。
ぎゅっと拳を握り締めたインテグラの後ろで今度はノックの音が響いた。

「クレア、入るぞ。」

ハンカチで額を拭きながら入ってきたのはバーネットだった。よほど急いで帰ってきたのか足早に娘の傍へとやってきたその額は皮脂を含んだ汗に光っていた。娘の方はと言えば父親の声をドア越しに耳にした途端、表情を硬くしてまた口を引き結ぶ。クレアにとっていまや父親は恋路を邪魔する憎らしい存在なのだろう。

「いや失礼したヘルシング卿・・・そ、それで、どうかね?」

彼の額の照り具合にか、娘の前でそれを聞くデリカシーの無さに対してなのか、不快感に眉を寄せたインテグラは溜め息を吐きたいのを我慢しながら応えた。

「もう少しお嬢さんとお話させて頂きたいので、今夜はお世話になっても宜しいでしょうかバーネット卿。」

インテグラの言葉に目を見張ったバーネットは、言葉にする前に小刻みに何度も頷いてからようやく声を絞り出した。

「ああ、ああ、勿論だとも。すぐに部屋を用意させよう。」

「家に連絡を入れたいのですが。」

立ち上がり、バーネットを促して部屋を出る。去り際に振り返ってクレアがこちらを見ているのを確認して、笑みを返した。ともかく今は感情を拗れさせている相手を部屋から追い出したインテグラに、彼女はもう少し気を許すはずだから。



 屋敷で気を揉んでいるだろう忠実な執事に電話を入れ、隠語交じりに隊員の手配をした。いったん戻るよう注進した彼だったが取り敢えずは連絡を入れ部下を呼んだ事にある程度は納得してくれたようで、今回も不承不承ながらインテグラの命令を聞いてくれた。

「それでどうする気だお嬢さん?」

腕を組んで壁に背中を預けたまま、面白がっている声音で聞く男をインテグラはじろりと睨む。
クレアの部屋と同じ3階に用意された客室に、部下が持ってきた荷物を置いたところだった。

「何が?」

「吸血鬼が今夜現れなければ明日も明後日もここに泊り込むつもりかね?」

忌々しい事に同じ部屋に置いておくしかない秘密の従者を見る目を、まだ歳若い主人は馬鹿にしたように眇めた。

「明日も明後日も無い。化け物は今夜来る。」

「その根拠は?」

「根拠なんか必要ない、私の勘だ。」

インテグラの言葉に男はにいと唇の端を吊り上げる。

「ほう、勘。」

「何か文句あるのか。」

「いいや。」

そう言いながらも男は喉の奥で笑う。馬鹿にされているようで腹が立ったが、ここで悶着を起こす訳にもいかない。そのうち目に物見せてやるとインテグラは心の中でだけ歯噛みした。
言わなかったが男は主人の確信を確かなものとして認識していた。自分の執着する獲物の近くに、同属やさらに上質の獲物の気配がすれば、その状況を確認しに来ないわけにはいくまい。それを思って男は唇を歪めたが、主人の嫌気を買うだけだった。
日が落ちるとぐんと気温が下がった。
ぶるりと体を震わせてインテグラは目を開ける。食事の後どうやら眠ってしまったらしい。ソファに居たはずだがあの従僕が運んだのだろう、ベッドの上に居た。空調は効いているが少し肌寒くなった部屋で、インテグラは起き上がり自分の腕をさする。

「アーカード。」

うっかり目を離してしまった従僕の名を多大な後悔と共に呼んだ。絶対に見張って居なければならなかったのに。 唇を噛みながら部屋中の壁や床を見回すインテグラの背後で押し殺した笑いがする。驚いて反射的に振り返ると、そこに尊大な従僕の姿があった。それもインテグラが居るそのベッドの上に、自分の組んだ両腕を枕に仰向けに寝転がった姿でだ。従僕の姿を探すのに部屋の方しか見回さなかったから全く気が付かなかった。

「どうした、不安気な声を出して。」

にやりと笑ってこちらを見る男の言葉に、インテグラは怒って手近にあった枕を投げ付ける。

「誰の許し得て主人のベッドに寝ているのよ!!」

「いつもの事だろう。」

「黙れ!!この・・・」

罵詈雑言を言い掛けて、男の表情が変わったのに黙る。

「アーカード?」

「来たぞ、お嬢さん。」

従僕の言葉が何を示すのかすぐに分かった。
ベッドを飛び降り部屋を出る。出てすぐに廊下で延びている警備員の姿があった。警邏中に眠りこけたとしか思えないその姿に、インテグラは後ろを付いて来てる筈の従僕を振り返る。そこに紅い長身がちゃんとある事にほっとしながら男に聞いた。

「クレアを狙っている奴の仕業なのか?」

「だろうな。」

きっと屋敷中がこの有様なのだろう。インテグラが相手の術中に嵌らなかったのは多分アーカードのおかげだ。 クレアの部屋に走って行き乱暴にドアを開けた途端、こちらを見ている赤い目と目が合う。インテグラの目から見ても綺麗だと思える、そんな男だった。青年と少年の間くらいの、金色の巻き毛を持つ男はうっとりと彼を見上げるクレアを抱きかかえたまま、こちらをじっと見ているだけで身動き一つしない。

「その娘から離れろ!!吸血鬼!!」

法儀式済の実包の入ったPPK/Sを構えてインテグラは恫喝する。男は不思議そうに首を傾げて赤い唇を開いた。

「どうして?」

問い返されたインテグラの方が困惑した。何故かなどと決まっている。人に危害を加える化け物を駆逐するのがインテグラの仕事で、それを遂行するのに標的の傍に人間が居たら不都合だからだ。それを言って吸血鬼が素直にクレアを離す訳がない。我ながら馬鹿な事を言ったものだ。
問答無用で銃を打って彼女を盾にされでもしたら事だとインテグラは気付いて銃を下ろす。

「アーカード、彼女に傷ひとつでも付けたら許さないからな。」

「認識した。」

嬉々として獲物に飛び掛った猟犬は、その爪を吸血鬼の喉に食い込ます。吊り上げられてもその吸血鬼は無抵抗だった。

「貴方、古いね。」

喉を掴まれているとは思えない銀鈴のような声で吸血鬼は言う。

「疲れないの?この夜を漂泊する事に。僕はすっかり草臥れたよ。」

手も足もぶらりと弛緩させたままの彼に取り縋ったのはクレアの方だった。

「何をするのよ!!離して!!彼を離して!!」

弱りきった彼女が出したとは思えない鬼気迫る金切り声にインテグラは眉を寄せる。

「でも一人じゃ寂しいから、愛したあの女によく似たこの子と一緒に逝きたいんだ。」

「ふざけるな。」

インテグラは吸血鬼に向かって言う。この吸血鬼がいったい何十年何百年、さんざん人を食らいながら永らえて来たのかは知らないが、あまりにも勝手な話だ。

「彼女は誰の身代わりでも無い。逝きたいなら勝手に一人で逝け。」

インテグラの言葉と同時に従僕の手が吸血鬼の胸を貫く。
鈍い音に、クレアの悲鳴が覆い被さった。



 吸血鬼が塵に還ると共に、糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちたクレアをベッドに寝かせて部屋に戻る。警備員はまだ眠りこけていたが、じき目を覚ますだろう。
あまりにもあっさり片付いた標的の最後に、インテグラはまだ釈然としていなかった。ソファの肘掛けに付いた手に顎を乗せ、傍らに控える従僕に独り言のように訊ねる。

「アーカード、あれは本当に吸血鬼だったのか?」

「本当に、とは?」

従僕に聞き返されて次の言葉が出てこない。
何と訊ねるつもりだ。問えばこの男は答えるのか。

「何が聞きたい、お嬢さん。あの吸血鬼が私の仕込みかとでも思ったか?」

全てを見透かしたかのようなアーカードの言葉にインテグラはぎくりとする。
男はふんと鼻で笑うと徐にインテグラを抱えあげ、そのまま歩き始めた。男が部屋を横切る間にカーテンがひとりでに開き、バルコニーへ続く窓が開いた。男に連れ出され、夜の冷気に頬を撫ぜられ首を竦める。男はバルコニーの端まで来ると手摺りにインテグラを腰掛けさせ、腿の間に腰を割り込ませた。
下の方に、庭の照明にぼんやりと照らされた木々が見える。ほんの20センチほどの手摺りの上で、支えるものは腰に回された男の腕のみ。それでもこの男の首にしがみ付くのだけは耐えた。

「気丈だなお嬢さん、ここから落ちれば無傷ではすまないぞ。」

「かもな。」

でもこの男は自分を落とさない。信じているとかではなく整合性の問題だ。それでもやはり怖くないと言えば嘘になる。

「あれは、この世に飽いたのだよ。」

「?」

「人は諦めれば死ぬ。人でなしは飽きたら消える。」

あの吸血鬼の事かとようやく合点がいく。草臥れたと、奴は言っていた。この世にしがみ付く動機が興味や好奇心なのだとしたら、随分と迷惑な話だ。
首のリボンタイが男の手で解かれるのを殊更に冷めた目で見つめる。狼狽えたりなどしない。怖がってなどやらない。
シャツの釦を外され、下着の上から薄いふくらみをやんわりと揉まれる。下着と手袋を介しても体温を奪われた気がして、ぞくりと背筋が寒くなった。

「人も、人でなしも、信用なんかしない。」

「それが利口だ、ヘルシング卿。」

今度はいつのまにか開かれたトゥラザースの中に男の手が忍び込んでくる。腰の手は揺るがない。わざと体重を預けた。
インテグラの躰を知っている男の手は巧みで、すぐに息が上がる。いいように掻き回されても男の腰が挟まっていて足を閉じることも叶わない。
宛がわれ、貫かれる。
屋敷の中の人々が目覚めた気配がする。

「っ・・・」

寒くなるどころか躰が火照って行く。冷たいはずの男の肉魁までもが自分と同じ温度になっていくのが忌々しい。
バルコニーの冷たい手すりの上で吸血鬼に揺さぶられながら、溺れまいと懸命に意識を手繰る。
この行為は代償。自分は誰かの代わりでも獲物でもない筈だ。
でも愚かさ加減で言えば自分も彼女と大差は無いのかも知れない。

「最中に考え事とは随分余裕だなお嬢さん。」

皮肉めいた男の声が冷たい闇に響く。
ぐりぐりと乱暴に花芽を捏ねられてインテグラは歯を食いしばった。

「・・・くっ・・・」

「真面目に相手をしろ、私に失礼だぞ。」

勝手な理屈を言って男はさらに激しく腰を打ち付ける。
瞬間、全ては快楽と言う名の毒に支配される。痩身を引き攣らせ、仰け反った背中を男の手が支える。
熟んだ内側に冷たい欲望が放たれた。




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