◆序―prelude―
こんもりと盛られた小さな土の山の上に、インテグラはいましがた摘んだ 薔薇の花をそっと乗せた。
空は薄灰色の雲に覆われて、陽光の当たらない薔薇園の一画は昼間だと いうのに肌寒い。つと、藍色の瞳から透明な粒が溢れ落ちた。
「何を泣いておる?」
聞き覚えの無い声に驚いて振り向く。そこに、年若いブルネットの女性がいた。いや、少女と言うべきか。
「あなたはだれ?」
「わしか?わしは―――――だ。」
唐突に吹き抜けた風に彼女の声は掻き消され、よく聞き取れ無かったが聞き返しては失礼になるかもしれない。
屋敷内に居るのだから父の客人か何かだろう。
「どうして、そんなおじいさんみたいなしゃべりかたなの?」
インテグラの物怖じせぬ、率直な疑問に少女は笑ったようだった。
「じいさんじゃからの。」
意味がよく分からずにインテグラは首をかしげる。とても「じいさん」には見えない。
「どうして泣いておった?」
最初の質問を繰り返しながら、少女はインテグラの横にしゃがみこんだ。
「エディが死んだの。エディは黒くてとってもキレイなイヌだったけど、 おじいさんになってしらががふえて、うごけなくなってたの。 私、いっしょうけんめいおせわしたのだけど、きのう・・・。」
思い出し、乾きかけていた頬をまた一筋の涙が伝う。
「愛し愛されていた者から見取られて天寿を全うしたのじゃから、そいつは幸福というものじゃ。」
「こうふく?死ぬことが?」
「そうじゃ。・・・まあ遺していったお前が心配じゃあろうがの。そのように塞ぎこんでおってはエディとやらも心配しておるぞ。」
少女は立ち上がり、インテグラに手を差し伸べた。
「少し外を歩かぬか?気晴らしになるぞ。」
「え・・・でも・・・」
「なんじゃ?」
躊躇するインテグラの腕を掴んで立たせながら、少女は問う。
「かってにお外に出ちゃ危ないって・・・お父さまやウォルターが。」
「気にするな。アーサーとウォルターにはわしが言っておく。」
腕を掴んでいた手をインテグラの手に握りかえ、少女は歩き始める。手を引かれるまま歩きながら、インテグラは困惑していた。
「で・・・でも、私、あなたのこと知らない。」
「そうか?わしはよく知っておるぞ。」
「お父さまのこと、アーサーって呼ぶ人、アイランズのおじさまか お父さまの恋人の人たちだけだよ?あなた、お父さまの恋人?」
ブッと聞こえた音は、どうやら少女が吹き出した音のようだ。
「あっはっは・・・まさか。」
「じゃあ、・・・おまえはだれ?」
立ち止まったインテグラに伴って少女も止まり、振り返る。
突然、鋭い刃物のような危険な光を帯びた瞳を見て、少女は驚愕も落胆もせず、それどころかまた笑った。
「おぬしは・・・おぬしもやはりヘルシングじゃの。」
インテグラの豹変振りを見て狼狽するようなら、すぐさま手を振り払って屋敷へと走るつもりだった。だが少女は笑ったのだ。それも、心底嬉しそうに。
毒気を抜かれたインテグラは、ほんの少しだけ体の力を抜いた。何故だか初対面のこの少女に、警戒心や猜疑心よりも好意が先に立つのだ。それにどうせ外に出ようにも門で守衛に止められるだろう。武器を持ち合わせているようには見えないこの少女では、武装している守衛を倒して外に出て行くことは不可能に思えた。
しかしインテグラの考えとは裏腹に、少女は門には向かわず薔薇園から一番近い塀の方へとインテグラを伴って行くと、塀の前で事も無げにインテグラを横様に抱き上げた。
「きゃっ・・・」
いくらインテグラが幼いとはいえ、十違うか違わないかくらいの少女の力で軽々と持ち上げられるとは。華奢に見える腕も体も、インテグラの全体重に揺らぎもしない。
「ちと目を瞑っておれ。」
言われるままにぎゅっと瞼を閉じたその瞬間、体が重力から解き放たれるのを感じて思わず目を開く。
「え?」
そこにあるはずの塀も木立も無い、目の前のぼんやりと広がるグレーが薄く雲の立ちこめた空だと気付くのに数瞬、スローモーションで敷地の外に植えられた雑木が近づいてくる。ふわりと何の衝撃も音も無く、少女の足が片足ずつ地面に着地した。
気が付けば屋敷の塀は背後。少し先に市街地へと続く並木道が見える。いとも優雅な仕種で下ろされたインテグラは目を瞬(しばた)いた。
「あなた、まほう使いだったの?」
質問に答えることも無く微笑んで、少女はまたインテグラの手を取る。無言のまましばらく雑木林の中を歩いて、インテグラがさすがに不安になってきた頃になって少女が口を開いた。
「おぬし、その目で不自由は無いのか?」
どきりとして、何と言って家に帰してもらおうと思案の為に俯かせていた目を、インテグラは少女に向けた。
「生活には困らぬだろうが、あまりよく見えておらぬじゃろ?」
疑問符ではあったが断定的な少女の言葉。誰にも見破られることの無かったはずのインテグラの秘密。
「学業には差し支えておらぬのか?」
三言目で、やっとインテグラは決心した。
「先生が授業中に言った事は一回で覚えるようにしているの。」
「ほう・・・」
「でも、ボードがあまりよく見えないからちょっと困る。」
初めての吐露。父にもウォルターにもまだ言ってない。
「全く見えないわけでは無いのだから補助する道具を使えば良いだけの事じゃろう?眼鏡とか言ったか?」
少女には全く縁の無い物だったが。
「うん、でも・・・」
「でも?」
「色が白くてキレイなキャロルでさえ“メガネブス”って男の子たちにからかわれてるのに、私なんかがかけたら何て言われるか分かんないよ。」
インテグラはしょんぼりと肩をおとす。
「“私なんかが”?」
「だって、こんな・・・肌の色だし・・・」
父の前では絶対に口に出来ない劣等感。 一目見ただけで生粋の英国人ではあり得ない自分の容姿。
「自分の容姿が嫌いか?」
「あんまり・・・好きじゃない。」
立ち止まり、少女はインテグラに向かい合って腰を少し屈める。 目の前に少女の顔があった。
その時になって初めてインテグラは少女の顔をよく見る事が出来た。美しい顔立ちの中の一点に釘付けになる。
紅い瞳。
頭の中をガンガンと警告音が鳴ったが動くことが出来ない。硬直したままのインテグラの頬を冷たい白い手がやんわりと撫ぜた。
「こんなに綺麗な肌なのにか?」
「キレイ?」
「メガネとやらを掛けても可愛いとおもうぞ、わしは。」
笑った少女に感じるこの胸の高鳴りは何だろう。恐怖ではない。
「おまえ、バンパイアね。」
声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「私を殺すの?」
インテグラの言葉に今度は少女が首を傾げる。
「何故そう思う?」
「バンパイアにとってヘルシングは敵でしょ?それにドラキュリーナが私の血をすってもはんしょくはしない。」
少女は少し考え、インテグラの言葉の意味が分かった様だった。
「じいさんじゃと言っただろう。わしはお前を吸血鬼に出来るぞ。」
インテグラは目を見開き、それから困ったように眉根を寄せた。
「どうせなら殺してもらったほうが良いんだけど・・・」
少女は曲げていた背筋を伸ばしインテグラの背後を仰ぎ見る。
「やれやれ、もう迎えが来たようじゃ。」
少女が独りごち遠くを眺める素振りに、インテグラも背後を振り返るが、視界には雑木林が広がるばかりで何かが来るようには見えない。
「また会おうぞ、ヘルシングの娘。」
少女の言葉に正面に向き直るが、まるで夢か幻だったのかのようにその姿は忽然と消えていた。辺りを見回していると、遠くから走る足音が聞こえてきた。
「お嬢様!!」
駆け寄ってくるのは執事のウォルターだ。
「お捜ししましたよ!!いったいどうなさったのです!?」
随分と走り回ってくれたのだろう。珍しく息の上がったウォルターに、インテグラは心から申し訳なく思う。
「ごめんなさいウォルター。ちょっと、お散歩がしたくなって。」
「それではお声を掛けてくださればお供しましたのに・・・ とにかく帰りましょう。ひと雨来そうです。」
「うん・・・」
ウォルターに吸血鬼が居たことを言わなければならない。
しかしヘルシングの本拠地に侵入していたというのに、何もしなかった吸血鬼をどう説明すれば良いのだろう。
いや、例え何もしていなくても、ウォルターなら探し出して彼女―――いや、彼か―――を八つ裂きにするに違いない。
屋敷へと帰る道すがら、背後を振り返りインテグラが立ち止まる。
「どうしました?」
「ううん・・・そうだウォルター、私ね、あんまり目が良くないみたいなの。」
「それはいけません、すぐに眼科医に来て頂きましょう。」
「うん。ねえウォルター、私メガネ似合うかな?」
「はい?」
「ううん、なんでも無い。」
きっと可愛いはずだと言ってくれた吸血鬼の言葉を思い出す。
また会おうと言った。今度会ったらその時、あの吸血鬼は何と言うのだろうか。
「いかがですか?お嬢様。」
オーダーメイドできっちりと顔に合わせて作られた眼鏡を掛けてインテグラはくっきりと鮮明になった鏡の中の自分を覗き込んだ。なんだか面映ゆい。
「うん、ぴったり。よく見えるし。」
「それは良うございました。」
にこりとしたウォルターの背後でドアが開く。
「おっ、インテグラ、良いじゃないか。」
入ってきたアーサーの第一声にインテグラは顔を綻ばせた。
「本当?お父さま。」
「うむ、可愛い。」
「あのコ、なんて言うかなぁ・・・」
インテグラの呟きを聞きつけたアーサーが気色ばむ。
「あのコ!?誰だ!?男かっ!?」
「えへへ・・・秘密。」
「何!?許さんぞインテグラ!!ちゃんと父に言いなさい!!」
言えばアーサーとウォルターには通じたのだろうが、もちろんインテグラはそんな事を知る由もない。
「秘密って言ったら秘密だよ。」
言っても多分、会わせてはもらえなかっただろうが。
続