◆XXX


 日の出まであと3時間。
逃亡を図る側であれば永劫にも感じる時間ではあろうが、狩る側としては時間を掛けすぎたと言わざるを得ない。 いっそこのまま夜明けを待てばと考えなくは無かったが、その間にも被害が拡大しないとは限らない。
それにしても、こんな騒ぎを起こして何になるというのだろう。人を集めて脱出を困難にする事は、人ならざる者には何の利にもならないはずだ。
腕の時計を見たインテグラは眉を顰め、非常線の張られた先の、青い光にちかちかと照らされた建物を見遣り独りごちる。

「全く近頃のフリークスと来たら、思慮も自尊心も無いのか。」

返事を求めることの無い独白に、まさか応えが来ようとは。

「全くだ。」

その声に背後をちらりと見て、建物に視線を戻す。

「終わったのか。」

「ああ。」

「そうか、ご苦労。」

溜め息をひとつ。
スーツの内ポケットからシガーケースとライターを取り出して、カット済みの葉巻に火を点ける。
明日・・・いや、もう今日か・・・の新聞の見出しは『立篭り犯、説得むなしく銃殺』と言ったところか。
この事件の真相が世に知らされることは無い。
6時間以上も人質を連れて立て篭もった犯人が、どうも人間ではないようだという知らせが入ったのが午前3時頃。普段ならばそろそろ化け物の出現確立も減る時間帯で、当日勤務の隊も半分は仮眠に入る時間だった。
既にヤードとCO19に包囲され、遠巻きにマスコミや一般市民も居る状況では部隊を投入するわけにも行かず、狙撃隊に5分の空白を作らせて子飼いの化け物を放った。

「やはり吸血鬼だったか?」

「そうだ。」

「そうか、では人質も全滅か・・・」

吸血鬼という化け物は基本的に狡猾で思慮深く自尊心の高いものだと思っていたが、最近ではそうでない輩も居るようだ。幾ら人よりも強い力を持っていようと、こんなやり方は自爆テロと大差ない。
一服吸って虚空に煙を吐き出していると、非常線の方から1人走ってくるのが見えた。
ヤードか、CO19か。どちらにしても喧々諤々の話になるのは間違いないのでうんざりではあるが、これを終わらせないと帰れない。
格好からしてヤードの警官ではなくCO19の武装警官の方だろう。インテグラの前で防護マスクを外したその顔には見覚えがあった。

「ダグ?」

「やあ、インテグラ。」

暗めの金髪と灰色の瞳、ダグラス・マーレイはおよそ武装警官らしからぬ柔和な笑みを浮かべた。

「SASじゃなかったのか?」

「うん、公安に引き抜かれてね。今はCO19だよ。」

そんなに優秀ならアイランズ卿も見合い相手ではなく、隊員の方に推薦してくれれば良いものを。しかし彼なら無駄な話を一から懇々と聞かせなくて済むと、少しほっとしたのも束の間。

「この匂い、憶えがあるぞ。」

背後から降ってきた声に、こいつが居たんだとげんなりする。

「機関員さん・・・かな?」

ダグラスの疑問符は、この男の胡散臭い容貌を見れば当然の事だろう。
振り返り、そこにあった襟首をリボンタイごと引っ掴んで引くと、まさか微動だにしないだろうと思っていた上半身がこちら側に屈みこんできた。少々面食らったがそんな事は億尾も出さず、インテグラは目の前にある白皙に掛かった濃いサングラスの向こうを睨みすえる。

「まだ仕事は終わっていない。大人しくしているか、『待て』が出来ないなら消えていろ駄犬。」

男の襟を突き放して向き直ると、ダグラスが複雑な表情を浮かべていた。
彼の前で猫を被っていた憶えはないが、どちらかと言うと彼もああされる側だろうからアーカードに同情したのかもしれない。

「あー、仕事の話をしていいかな。」

「どうぞ。」

「今夜の事件の後始末はCO19でやるのでこれ以上手間を取らせなくて済むと思う。現場の検証の方はどうする?」

「午前中にも、鑑識班を寄越す。」

「OK.伝えておく。」

始末書や諸々の報告書が少しでも減るのはインテグラとしては有り難い。吸血鬼と共に消滅してしまった人質たちの家族への説明や何やらは大変だろうが、そもそもそれはヘルシング機関の管轄外だ。

「実際に見ても信じられなかったよ。」

ダグラスがぽつりと言った言葉に、インテグラはだいたいの経緯を悟る。

「うちに連絡を入れさせたのは貴方か?」

「ヒットしても死なないし人質同士は食い合いを始めるし、これは我々の手に負える仕事じゃないって思ってね。女神の顔が脳裏に閃いた。」

「女神?」

聞き返すと、彼は洒脱に肩を竦めた。

「これくらいにしておくよ。さっきからこっちが撃ち殺されそうで肝を冷やしてる。」

そう言って寄越した視線の先は、たぶん『待て』中の大型の猟犬だろう。
「それじゃ」と片手を上げて、来た時と同じく走り去っていくダグラスを見送り、インテグラはその猟犬を振り返るではなく、屋敷に帰る車に戻るために踵を返した。
男が、無表情なのに至極憮然と分かる気配で立っていた。




 屋敷に戻ったインテグラは、執事に鑑識班の指示出しを頼んでから私室に戻った。まさか寝坊するつもりは無いが、午前中に寄越すと言った手前、執事に言いおいた方が確実だろうという判断だ。
バスルームでシャワーを浴びたが髪を乾かすほどの気力も無く、軽くふき取るとローブを羽織ってそのまま寝室へ行きベッドに突っ伏した。
夜明けも近い。眠れても仮眠程度になるだろう。
うとうとしかけた時に、ベッドがきしりと沈み込んだ。

「あの男は何だ。」

眠気を邪魔する男の声に苛々したが、素直に返した方が早く済みそうだ。

「ダグラス・マーレイ。以前アイランズ卿の紹介で2回ほど会った。」

羽枕に顔を埋めたまま、もごもごと返す。

「会っただけであのようにも残り香が移るものか。」

犬の嗅覚なんて知ったことか。
億劫になって黙っていると、男はさらに問い詰める。

「何をした。」

ああもう煩い。

「キスした。」

「何?」

「もういいだろ、眠らせろ。」

腹が立って寝返りを打った途端に顎を捕まれ口付けられた。
珍しく、軽く重ねるだけのキス。

「どんな風に?」

「どんな風って・・・」

軽くのつもりがフレンチになる所だったキスを思い出して思わず赤面する。それを男はどう受け取ったものか。

「お前にそんな顔をさせるとは油断がならんな、あの男。」

「ちょっと待て、お前なにか勘違いを・・・」

唇をねろりと舐められたのに驚いて言葉を続けられなかった。そのまま下唇を甘噛みされて、自然に開いた口の中に舌を挿し入れられる。歯列や歯茎を探られながら口を大きく開かされ舌を吸われたかと思うと、食われるのではないかと思うくらい、互いに開いたままの唇を密着させて口腔内を蹂躙される。

「ん・・・」

息が苦しくて、つい鼻から漏れた吐息が自分のものとも思えぬほど甘い。

「で、どれだ?」

「ふぇっ?」

何て事だ、舌が上手く回らない。
それよりも質問の意図が全く分からない。

「どれ・・・って・・・」

「ふん、そこからレクチャーが必要か。」

何だ。何の話だ。
再び迫ってくる白皙にまた噛り付かれるのかと身構えると、予想に反して軽く唇を重ねられる。男の唇の間に自分の下唇がそっと触れている状態でゆっくり左右へと振られる。唇同士の摩擦がくすぐったい様なムズ痒い感じだ。

「スライド。」

「???」

唐突にひと言いって今度は下唇を唇で挟まれる。それからまた小さく左右に振られた。

「スウィング。」

男がまたひと言。ちょっと待て、まさかそれぞれのキスに名称があるか?
聞こうと開きかけた唇を男の舌でなぞられ言葉が続かない。

「ニプル。」

ちょっと待て。頼むから待て。
吐き出そうとした台詞は男の口に吸い込まれ、侵入してきた男の舌が歯茎の表や裏や舌の根まで探ってきた。息苦しさに開放されると同時に息を吐けば舌を吸われる。

「インサートからのサーチ、それからストロー。」

腹立たしいくらいに平坦な男の声。
こうやって一々ご丁寧に名称を教えてくれので「どれだ」の質問の意味は分かった。だがここまでされていないし、そもそもどれもされていない。
そう言いたいのに、畜生め唇と舌が痺れたように動かない。

「全く、あいも変わらず強情な事だ。」

いや、答える。答えるから。

「では唇以外へ聴くとしよう。」

耳のすぐ傍で吹き込まれる低音に背筋を電流が駆け抜ける。耳朶をやんわりと噛まれ舌を這わせられる感覚は唇よりもダイレクトだ。じん、と下腹が切なくなるのを自覚する。
結局こうなるのか。頭の中で指を折ったがとても眠る時間が取れるとは思えない。しかしこうなった男が大人しく諦めるなど有り得ないことも充分承知だ。
不承不承、インテグラは早々の就寝を諦めた。





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