◆Abaddon―滅ぼす者―


 ここ暫く雪雲に覆われた空は陰鬱として、暖房の効いた部屋の窓から見上げても寒々しい。
書類の広げられた執務室のデスクから視線を上げて、インテグラは背後の窓を振り向いていた。英国らしいと言えば英国らしいこの空の色も見飽きてきた。そろそろ太陽の光も拝みたいものだと思いながら、思いのほか早く終えた書類を纏めてデスクの上を片付ける。ちらりと腕の時計を見ると14時。今日はこれと言って予定はなかったはずだ。
インテグラは椅子から立ち上がるとデスク上の電話の内線ボタンを押す。ほどなくして執事の返答がスピーカーから流れ出た。

『はい、お嬢様。何でございましょう。』

「ウォルター、私はリビングの方へ行くから用のある時はそっちへ来てくれ。」

『畏まりました。』

執務室を出て途中で書斎へ寄る。読みかけのまま放ってある本を数冊手にしてリビングへと向かった。
リビングに入るとローテーブルを囲むソファセットの一番奥の一人掛けに腰掛ける。数冊の本の表紙をそれぞれ一瞥して、選んだ一冊を開いた。
数ページも読んだだろうか、ドアも開けずに入ってきた子供に読書は中断させられた。

「こんな時間に居間で読書とは珍しいのう、主。」

後ろから覗き込みながらの声にインテグラは眉根を寄せながら振り返る。

「真昼間にうろついている吸血鬼ほどではない。」

「ふむ、それもそうじゃな。」

年寄りのような言葉使いとは裏腹に少女の姿をした化け物はあっさりと認め、可憐な仕草で首を傾げる。それを見たインテグラはいよいよ眉間に皺を寄せた。

「何か用か?」

「用が無ければ居ってはいかぬか?」

「別に居ても構わんが・・・」

何でその姿なんだという問いは呑み込んで、インテグラは再び本に目を落とした。少女はインテグラがテーブルの上に置いていた数冊のうちから一冊を取り出し、インテグラの座っている椅子と直角に並んだ三人掛けのソファにうつ伏せに寝転んで本を広げる。膝から曲げた足が交互にぴょこぴょこと動くのが視界の端に入って気になったが、そのうちに忘れて本に没頭した。
しばらく経った頃、ノックの音がしてドアが開き、茶器を載せたキャリアカートを押して執事が入ってくる。

「お嬢様、お茶をお持ち致しました。」

「ああ、ウォルター、有難う。」

「おお、ウォルター、ご苦労。」

本から顔を上げたインテグラに微笑み、寝転んだまま言った少女に執事は渋面を向けた。
キャリアの上でティーカップにお湯を注ぎ、ティーポットの中を覗いてジャンピングが終わっているのを確認してカップのお湯を捨て、ソーサーへと載せる。茶漉しを宛てながらカップにお茶を注いでインテグラの前に出し、茶請けのスコーンとジャムを横に置く。
さっそくカップを持ったインテグラが香りを嗅いで笑みを浮かべた。

「良い香りだ。」

「有難う御座います。」

主人の賛辞に腰を折った執事の言葉に少女の声が重なる。

「何じゃ、わしの分は無いのか?」

「アーカード・・・様、些かお行儀が悪いのでは無いかと。お茶を飲む姿勢ではございませんな。」

「そんなのは注いでから言え。」

口を尖らせた少女に執事は引き攣った笑みを向ける。

「ウォルター、入れてやれ。」

「・・・はっ。」

主人の言葉に渋々、執事は同じ手順で予備のカップに入れたお茶をアーカードの前へ置く。

「さすが主は懐が広いのう。」

アーカードはにやにや笑いで執事を見ながらソファから起き上がってカップを手にした。

「う〜む、狭量でも腕は確かじゃのう。美味い茶じゃ。」

本当に旨そうに紅茶を飲む吸血鬼を見てインテグラはぷっと吹き出す。

「何じゃ?」

「いや、リビングでアフタヌーンティーを美味しそうに飲む吸血鬼って、何だか・・・なあ?」

「そうか?主は我々を誤解しておるぞ。そもそも吸血鬼とは優雅な種族じゃ。普段わしらが退治しておる馬鹿どもはお行儀の悪い低俗の低級どもなのじゃぞ。」

「ソファに寝転んで本を読む者はお行儀の良い高尚で高級な吸血鬼な訳ですな。」

執事のやり返しを無視してアーカードはお茶を飲み干すと、またごろりと横になった。
インテグラは困ったような顔はしたものの何も言わなかった。何か言おうとした執事をそっと手で制す。執事は不承不承頷いた。
お茶を終えて空の茶器を運んで執事が出て行って暫くすると、少女はひょっこりと起き上がる。

「退屈じゃ、何か面白い事は無いかのう。」

「お前が退屈してくれているという事は世の中が平和な証拠。悦ばしい事だ。」

インテグラは本に目を落としたまま事も無げに言う。
吸血鬼がいくら曇り空と言えど昼間に読書をして退屈だとぼやいているのだから世の中かなり間違っているが。

「退屈じゃ〜、主〜、なんか面白い事無いかえ〜。」

ソファの上で胡坐をかいてゆらゆら体を揺らながら、またぼやいた少女にインテグラはさすがに溜め息を吐いた。何でこの化け物は姿だけでなく人格までこうも変わるのか。
そう考えてインテグラは、はたと思いついた。

「なあ、アーカード。」

言いながら本を閉じたインテグラにアーカードは目を輝かせる。

「何じゃ主?」

「お前のその姿って、どこから来てるんだ?」

「?・・・質問の趣旨がよく分からんのじゃが・・・」

「お前が自分で想像してそうなったのか、それとも基となる者が居たのかという質問だ。」

アーカードは大きな瞳の上の眉を顰める。

「その質問にはあまり答えたく無いのう。」

「ははぁ、やっぱり食った相手なんだな。」

ぎくりと言葉に詰まった風のアーカードに、腕組みしてインテグラは勝ち誇ったように冷笑する。普段のアーカードならインテグラに表情を読ませるような事は無い。しかし今の姿の時は別だ。質問するなら少女の姿の時に限る。

「気になるか?主。」

しかし敵もさるもの、余裕の笑みで聞き返したアーカードに、インテグラも挑戦的な笑みを返す。

「別にお前の過去の悪食など私の知った事じゃ無い。我が大英帝国とその国民に手を出さないのであれば私の預かり知らぬ事だ。」

嘘だ。実際のところは内心穏やかでは無い。14の時のインテグラに手を出したのだからこの少女に手を出していても何ら不思議は無い。

「まあそれは良いとして、いつものあの姿は本当の姿なのか?」

ソファに背を預けて足を組んだインテグラの質問に、アーカードは尖らせて口先でぼそぼそと応えた。

「・・・そうとも言えるが、そうじゃないとも言える。」

「また訳の分からん事を。何だそれは。」

むっつりと黙り込む少女にインテグラは居丈高に名を呼ぶ。

「アーカード。」

少女は膨らませた頬からぷうと息を吐き出した。

「いつもの姿はわしが人で無くなった時、すなわち吸血鬼になった時の姿では無い。気力体力が旺盛であった頃・・・と言えば間違いは無いかの。」

「ふん、いつも若作りしてるわけか。その『人でなくなった時の姿』にはならないのか?」

インテグラの言葉に、すうと少女の顔から表情が消えた。

「あれは、わしの真の姿は零号開放時でなければ現れない。」

「拘束制御術式零号?」

インテグラが呟き、アーカードが頷く。

「前から聞きたかったんだが、零号を開放するとどうなるんだ?」

「わしはただの吸血鬼に戻る。」

「それは前に聞いた。だから、それだけなのか?」

「今まで取り込んだものが全て使い魔として放出される。」

やっと繋がった長い方程式にインテグラは開眼する思いがした。
零号を開放すると言う事はアーカードが全てを開放すると言う事。全てを放出するが故に身ひとつになってしまうのだ。だから「ただの吸血鬼に戻る」と言ったのだ。 いったいこの化け物がどれほどのものを取り込んでいるのかは未知数だが、その総力戦となればきっと想像を超えた物に違いない。

「見たいか?」

「え?」

「わしの真の姿。」

笑った顔は、さっきまでインテグラに主導権を握られていた少女の顔ではなく打って変わった化け物の顔。

「冗談じゃない。」

たった今恐ろしい想像をしたばかりだというのに、こんな所で零号開放などされては困る。

「零号を開放しなければ会えぬが、見せれぬ事は無いぞ?」

こんな笑みをアーカードが見せる時はろくな事を考えていないはずだ。

「いらん、聞いてみただけだ。」

「そう言うな、わしが言うのも何じゃが主の好みだと思うぞ。」

「私の好み?」

何だそれはと怪訝そうに見返すインテグラに、アーカードは満面の笑みを浮かべ。

「髭を蓄えた中々の美丈夫じゃぞ。」

「何で髭が私の好みなんだ。」

「主はファザコンじゃからのう。アーサーも晩年は生やしておったじゃろう?」

「だっ!誰がファザコンだ!!」

「ふーむ、自覚が無いかのう。」

言いながらつつと寄ってきた少女にインテグラは渋面を向ける。

「私はファザコンでもなければロリコンでもレズビアンでも無い。」

胸元のリボンタイを解こうと摘まんだアーカードの手を叩き落とし、きっと睨み据えた。

「ふふ、やはり何時ものわしが良いのかえ?」

「そんな事も言っとらん!!」

「ふーむ、そうか、では仕方ないのう。主のお好みは何時ものわしらしいからご希望に添って戻るとするかの。」

「だからそんな事言ってないって・・・何だ、どこへ行くんだ。」

勝手な独り言を言いながらドアへと向かうアーカードに、インテグラが不審げに尋ねる。

「棺じゃ。変態するところが見たいかえ?けっこうグロいぞ。」

自己申告した化け物にインテグラは本当に嫌そうな顔をして、

「いらん、さっさと行け!!」

と犬猫を追い払う仕草で手を振った。



 緑の丘陵、所々にワイルドベリーや野薔薇のブッシュ。
両脇をレンガの塀で挟まれた馬車道が丘の上の古城へと続いている。
小さいころ学校のハイキングで行った場所に似ている気もするがよく分からない。何せこれは夢だ。自覚がある。夢である証拠にあんなに遠くにあった古びた城がほら、ほんの数歩で目の前だ。城門は開け放たれている。

「お城、門、普通なら仕事の成功を表してるんだが古城だからな・・・」

壊れた城は過去の栄光を意味しているが、インテグラに過去の栄光などありはしない。 そう、これはインテグラの夢では無いのだ。
昼間のアーカードの嫌な笑みを思い出した。

「はん、こういう事か。」

インテグラは独りごちて足を進める。絶対に何処かに居るはずだ。勝手に主人の少ない休息の場である夢の中にまで入り込むなと言ってやらねば気がすまない。そう思って石造りの階段を二階へと上がり、あちこちの部屋を覗いてまわったが人影一つ見当たらない。

「まったく勿体つけて・・・さっさと出て来い!アーカード!!」

インテグラの声は石の壁に反響しただけで、従僕からの返事は返ってこない。
全くなんだと言うのだろう。なぜ自分は夢の中でまでこんな疲れるような真似をしなければならないのか。
インテグラは腹立たしい思いでまた一つドアを開いた。そこに初めて視界に入った人影に息を呑む。
扉の正面にある露台に堂々たる体躯を鎧に包んだ男が立って外を眺めていた。男が振り向くとガシャリと鎧が鳴る。肩に掛かる、少し癖のついた黒髪。穏やかな中にも強い意志を宿した鷹のような瞳。尊大さが全く嫌味でない、ごく自然な威厳が多くの人々を惹きつけるだろう、そんな雰囲気の男だった。
口元に蓄えられた髭を見て、インテグラは男の顔の中に捜している相手の面影を探す。似ていると言えばそうかもしれないし、似てないと言えばそうかもしれない。

「アーカード?」

男は応えない。
―――――そうか、もしそうであってもまだ彼はアーカードではないんだ。
では何と呼べば良いのだろう。

「・・・伯爵?」

肯定の意を示すように男は薄く笑む。
その笑みが酷く淋しく見えたのは気のせいだろうか。文句を言うのをすっかり忘れてインテグラは伯爵の傍へ歩み寄った。インテグラが横に立つのを待ち、伯爵はまた露台からの眺めを見下ろす。

「美しい国だ。」

初めて、伯爵が言葉を発する。それをインテグラは同じように露台から外を眺めつつ聞いた。

「一度は追われ、追った者に招かれて来た。自らの領土を守れなかった私が外つ国を守護しておるとはな。」

人であった時も恐れられた猛将で、人でなくなってからも恐れられる化け物の彼を、インテグラはひどく小さな、ちっぽけな存在であるかのように感じる。

「大丈夫だ伯爵、私が居る。」

どうしてそんな事を言ったのか自分でも分からない。その真意がどこにあるのかも。
見上げるインテグラを見下ろし、伯爵は笑う。

「お前は強いな。お前ならば良い。お前で無ければ駄目だ。」

「・・・何がだ?」

首を傾げたインテグラの目の前で伯爵の姿がおぼろげになっていく。いや、伯爵だけではない。城も、丘陵も、全てが掻き消えて。
インテグラは目を覚ました。そこは勿論、自分の寝室のベッドの上。
領土も領民も全てとうの昔に消え果て、自らの郷里を離れた一人ぼっちの伯爵は、今頃どうしているのだろう。そう考えながらふてぶてしい従僕の顔を思い浮かべ、インテグラは苦笑する。
何を感傷的になっているのか。彼は吸血鬼、夜の住人、不死の王。そして自分の最終兵器。
自分が彼に何かしてやれる事があるとするなら、それは命令を下す事だけだ。
インテグラはそう結論付け、また静かに瞳を閉じた。




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