◆Call Me


 そこに行くのは初めてではない。
最初は必要に迫られて。二度目は確認するために。
その結果、自分は今この先に行くことに尻込みしている。
この先に自分の行った過去と、自分の選択した未来があるから。
未来。
普通ならばその言葉に輝かしいものを感じる者の方が多いはずだ。だがインテグラは暗澹たる気持ちで居た。
後悔などしていない。恐れてなどいない。そう自分に言い聞かせている事に、またさらに腹が立つ。
選び、そして行動した。事の正否はともかく自分には後退も停滞も許されることではない。
自信のある振りをしてでも前に進まなければ。
深呼吸をひとつ、意を決してドアを開ける。冷たい石の階段がインテグラを出迎えた。
注意深く下ろした筈の足先で思った以上に自分の靴音が鳴り響いてインテグラはどきりとする。
何を、誰を憚る事があろう。自分はこの屋敷の正真正銘の主なのだ。そう思い直して背筋をしゃんと 伸ばして足を進めた。階段が終わると真っ直ぐ廊下が伸びている。左右に並ぶドアを眺めては頭の中に知識としてある、それぞれの部屋の名称を思い描き、しかしインテグラはどのドアも開こうとはしなかった。今、用があるのは一番奥の部屋ただ一つだからだ。
再び進行を阻むドアに突き当たってインテグラは眉を顰める。両側に並ぶ無数の木目のドアと違い、そのドアだけが異質な冷たい金属の光を纏っている。牢獄と呼ぶに相応しい。
扉を開けたその正面に、そいつは悠然と座っていた。家具などは無い。そいつが座っているのは執事がどの部屋からか運んできた真っ黒い棺だ。
そいつは人を誑かす美しい顔の唇をにいっと吊り上げると、そこから玲瓏たる響きと錆びた気配を漂わせる声を発した。

「これはこれは我が主、このような場所にまで足をお運びとは何か御用かね。」

人ならざる五感を有する化物はインテグラが来る事を随分前から気付いていただろうに、それで居てインテグラがここに辿り着くまで呑気に座っていたのだ。
インテグラは込み上げてくる怒りを隠しもせずに言葉に乗せた。

「私だって用が無ければこんなとこに来たりしないわ。ヘルシングである私のお前に対する用事はただ一よ吸血鬼。」

インテグラの言葉に化け物はゆらりと立ち上がる。3メートルほどの距離があるにも関わらず、首を少し後ろに傾けないと顔に視線を合わせる事も叶わない。
ひやりと鳩尾のあたりに冷たいものを感じながらもインテグラは意地で化け物の赤い瞳にひたと視線を当て続けた。

「見敵必殺よ吸血鬼。」

「認識した。」

化け物は胸に手を当ててインテグラの目線の高さにまで深々と頭を垂れる。騎士が姫君にそうするように、あくまでも恭しく優雅な仕草のそれに不興を忘れかけていたインテグラは、だが頭を上げた化物の次の言葉にまた眉を顰める事になった。

「で、その呼び方はどうにかならんのかね。」

「何の事かしら?」

「最初に私は名を名乗ったはずだが?」

しれしれと言う化物にここ数日募りに募った怒りを爆発させ、噛みつかんばかりの剣幕でインテグラは怒鳴り返す。

「名乗った!?名乗ったですって!?お前は私を馬鹿にしているの!?あんなふざけた名前を何で私が呼ばなきゃならないのよ!!」

「何を怒っているんだ。」

腹が立つといったら無い。化物の恍けた返答はインテグラの怒りにさらに油を差した。

「お前は『私の名』なんて言わなかったわ!!お父様がそう呼んでいたって言っただけで!! 馬鹿にするにも程があるわよ。アーカードだなんてドラキュラのアナグラムだって子供だって知ってるわ!!要するにお前は私に名前を寄越さなかったのよ!!」

一気に言って肺の中の空気をすべて使い切ってしまい、苦しくなって慌てて胸を喘がせる。これだけはっきり言ってやったというのに化物はまだ合点がいかない風だった。

「呼称にさしたる意味などあるまい。気に入らなければお前が付けても私は一向に構わんぞ。」

「意味が無い?そんな筈が無いわ!!お前は私に縛られるのが嫌で名前を名乗らないのよ。」

「お前云々では無く私はヘルシングに縛られている。先代の臣である死神の忠誠には信が置けて私の服従は信じられないとはどういう事だ?」

「お前が化け物だからに決まってるじゃない。」

「死神も充分化け物に部類に入ると思うがな。」

だんだんとインテグラは水掛け論に嫌気が差してきた。何を言おうとこの化物が名を名乗ろうとしない限り話は堂々巡りなのだ。
魔物に言う事を聞かせる為には真の名が絶対に必要だ。名を明かさないこの化物はインテグラに傅く振りでいつ本性を現すかも分からない。

「もう良いわ、お前が名乗らないと言うのなら無理にでも奪うまでよ。」

ほんの十数年しか生きていない非力な少女の向こう見ずで強気な発言は、化け物を存外に面白がらせた。 化物がひと捻りすれば簡単に壊れるだろう華奢な体のいったいどこにそんな力があると言うのか。
あの日もそうだ。追われ、怯えてここに逃げ込んだ小娘は虐殺に動じたのもほんのひと時。迷いの無い瞳で肉親に銃を向けた。
不完全極まりない、まだ蛹でしかないこの娘が羽化する瞬間を待つも一興。
そう考えて笑みを浮かべた化物の表情を挑戦状と受け取ったらしい娘が、殊更に眉尻を跳ね上げた。



 「何を一人でニヤニヤしてるんだ、気色の悪い。」

紙面に万年筆を滑らせていたインテグラは、ふとした拍子に視界の端に入った男の表情に手を止めてぼやくように言った。執務室の壁に背中を預けて物も言わずに突っ立っている男の白皙が妙に歪んでいたからだ。

「いや、私の名をふざけていると言って怒った娘が居たのをふと思い出してな。」

日々の敵との戦い、人間社会の駆け引きや恫喝といったものに慣れて険しさを増した目と、幾分か尖った鼻と顎のラインの中に、それでもあの頃の面影を髣髴とさせる齢二十歳を超えた主人の顔を眺めて男は薄く笑う。それを見てインテグラは心底嫌そうに眉間に皺を刻んで顔を顰めた。

「私の真の名は分かったのかね魔女殿。」

幼い頃の事を臣下に言われるのは良い事だろうと悪い事だろうとあまり面白くない。それが例え執事であったとしても。この男なら尚更だ。

「まあな。」

短く憮然と答えてインテグラは話に蹴りを付けるつもりだった。それを知りながら男は面白がって言葉を継ぐ。

「それで?」

この男が性悪なのは今に始まった事ではない。ため息をひとつ吐きインテグラは諦めて万年筆を置いた。

「あの時の私は、得体の知れないお前を自分の知識の中の範囲内で選別してしまいたかったんだ。 だからどうしても名前が必要だと思った。」

とんだ規格外だったわけだが。

「どんな名前で呼ぼうとお前はお前だ、アーカード。」

たとえこの男が何者であろうとも、インテグラにとってそれはさして重要な事では無い。あの時に本人が言ったとおり。
男は更ににんまりと唇の端を吊り上げる。

「そうとも、お前が呼べばそれが私の名だ。My,Master.」

眠りより目覚めた時から。その血を口にした時から有無を言わさずに縛り付けられた。
名前が必要な契約など意味は無い。彷徨う魂は迷いの無い魂に魅せられ引き寄せられるのみ。
その暁光が自らを焼く焔だとしても。




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